夢現幻

 いつからそこに立っていたのかも定かではなく。何故ここに居るのかはもちろんわからず。
 闇に沈む空間に夕羅は一人立ち尽くしていた。
 見回すと、真っ暗な中遠くに見えるのは赤と白の点。ぼんやりと浮かんでは消えていく。
 目を凝らすとそれらが曼珠沙華だとわかる。
 白い曼珠沙華を実際に見るのは初めてだな、などと気楽なことを考える。もっと近くに寄って見られないものかと。
 そんなことよりも先に考えることがあるだろう、ともう一人の自分が警告を促した。
 闇は透明ではなく、元より闇は闇であって透明だとか不透明だとか絵の具ではないのだからと思うものの、彼の周りを取り巻く闇は確かにどんよりと濁っていた。
 嗅覚の通用しない世界で、その臭いが視覚に訴えるべく変換したかのように。
 その濁りに絡み取られ腕が、足が、重くなっていく。踏みしめる地面はとても頼りなく足元をよく見ようとしても視界がぼやけた。初めて右目だけで世界を見た時のようで腹立たしさを覚える。
 更に背後から夕羅を翻弄する者があった。
 振り返ると無数の白い手が地面から伸びていた。その中のひとつが夕羅の髪を絡め取り引き込もうとする。
「ちっ」
 いつの間にか手にしていた抜き身の刀を振るい、ためらいもなく己の髪と共に斬り捨てた。
 だが再び手は現れ残された髪の束をつかむ。
 その度に光る刃と散る黒髪。その度に増える白い手の幻影。
 音はなく、だが彼らの嘲笑が聴こえるようだった。
 …キリがない。
 そうため息をつく余裕などないはずがあまりにも不利な状況に、かえって冷静に空を振り仰ぐ。
 さてどうしたものかと手元を見下ろし、手にした剣が自分の物ではないと初めて気付いた。簡易な白木の柄に、刃が真っ直伸びた刀。
「これは…」
 呟いたつもりが声にはならず、ただの思考と化す。
 それでもそれと同時に、ふいに自分の隣りに温もりを感じた。
 呼ばれた気がした。『夕羅』と。
 自分の呼吸さえ聞こえぬ音のない世界で。
「…五右ェ門…?」
 口の中で呟く。その言葉だけは確かに自分の耳に届いた。
 そして再びその名を呼ぼうとして夕羅は目を覚ました。


 目を開いても同じ闇。そしてやはり闇は闇だと思う。
 それでも徐々に周囲に見慣れた景色が浮かび上がってくる。
 目が覚めたのだ、と理解する。夢だったのだ、と。
 半身を起こした夕羅の額に汗はないがそれでも常よりも脈打つ鼓動を感じ、わずかに震える指を闇を透かして見つつ苦笑するしかない。
 夢にうなされる歳でもあるまいに。
 規則的な呼吸が隣から聞こえた。
 当の青年が隣に眠っていたことを思い出す。彼が起きなかったということは叫ぶようなみっともない真似はしなかったらしいと安堵する。
 本当に静かに眠る五右ェ門の姿を見下ろす。
 無意識なのかどうか、彼の身体に自分の身体を沿わせて。
 その温かさが記憶に残っていた。
 ただ夢でしかないと、片付けるのは簡単だった。どんな酷いことになろうともいつかは目覚めたはずだと。
 だが。

「…助けられたな」

 その言葉に何の意味があるのか。自分でも知らないままただ呟いた。
 指を伸ばし目覚めぬように軽くその髪に触れる。
 己の内側に引きこもって眠る存在は何の反応も示さず、ただ夕羅だけがその生きている実感を受け取っていた。





(04.11.22)



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