蜩
カナカナカナカナカナ・・・・・・
遠くからヒグラシの鳴き声が聞こえて来る。
山奥にあるこの場所は、すでに秋の気配が色濃い。
それでもこんな昼間から鳴く事はないのに。
布団の中で、目覚めたばかりのぼんやりした頭で五右ェ門はそう思う。
外から射し込む光はすでに朝も遅いことを感じさせる。日本家屋の構造のせいか、室内に熱がこもる事はなくこんな季節でも快適に朝寝を楽しむことができる。
全身を包み込む、気だるい重ささえなければ…
隣りで眠っていたはずの男の姿はすでにない。ゆっくりと起きあがり、五右ェ門ははだけた着物を直した。
布団の上に座りこんだまま、障子を眺め、その先に広がる夏の景色を思う。
ヒグラシが絶え間なく鳴いている。
一番嫌いな季節がまた巡ってきた。
悲しいことなど何もないのに、無闇に郷愁をかきたてようとするあの鳴き声。経験したことのない悲しみさえ、背負い込ませようというのか。
既に知っている痛みだけで、もう十分なのに。
「まだそんな格好をしているのか」
後ろの襖が開き、夕羅が声をかけた。既に袴姿で、一仕事終えてきたといったところか。
振り向いた五右ェ門の姿に苦笑し、横を通りすぎて障子を開け放つ。
日の光が部屋いっぱいに広がり、五右ェ門はその眩しさに思わず目を閉じた。
夏の光線は、全てを明るみに引き出そうとする。自分の居場所はこの季節にはないのかもしれない。
ヒグラシの鳴き声がより大きくなった。
夕羅がふとその声に耳を傾けるような仕草をする。
「夏ももう終わりだな…」
「あの声は嫌いだ」
呟くように、でも吐き捨てるような口調で五右ェ門は言った。
その声の調子に、夕羅が五右ェ門を見て目を細める。
「私は好きだが…夏の終わりの風物詩であろう?」
視線をまた外へと戻し、夕羅は言った。
「ただそれだけだ」
五右ェ門は黙って夕羅を見ていた。夕羅も眼下に広がる緑を眺めている。揺らめく緑の光線に時々瞳を細めながら。
「四国にはヒグラシはいないと聞いたことがあるな」
ふと思い出したように夕羅が言った。
「そなた、そこで暮らすか?」
四国に暮らす人々は、ではこの痛みを知らずに生きているのだろうか。
うらやましい。
すでに知ってしまった身は、例えどこへ逃げても思い出してしまうだろう。もはや自分の心の底に染み込んで離れはしない。
「早く着替えろ。朝食の用意がとっくに出来ている」
夕羅は五右ェ門に近付き、もつれたままの髪を撫でた。
「何なら手伝うぞ?」
見下ろす夕羅の顔に笑みが浮かぶ。無表情に見返し、五右ェ門はその手を払った。
「出ていけ」
苦笑いを浮かべたものの、夕羅は黙って立ち去った。
静かに襖が閉められる。
布団の上に立ち上がって、五右ェ門は障子の向こうに広がる世界を見つめる。緑が揺れる。
その光景に背を向け、五右ェ門は着物を床に落とした。
その裸の背中にぶつかる、ヒグラシの声。