永遠
「桜の下で能を?」
不思議そうに問い返した五右ェ門に、夕羅は頷いた。
「薪能は知っているか?夜の野外で松明を灯し、その明かりで能を行う。それを更に桜の下でやろうというものよ」
「薪能は聴いたことがある…。観たことはないが」
「月虎会の趣向だ。茶会を開くだけでは面白みがないのでな」
車は、ではそこに向かって走っているのだろうか。夜の闇で外は見えない。街の明かりからもだいぶ離れた気がする。
「それが今日なのか?」
「いや、明後日の予定だが…、今日は試しに明かりを灯してみようと思ってな。桜も今日が盛りだそうだから見るには一番いいかもしれん」
夕羅はそれ以上は何も言わずに座席に体を埋めた。
五右ェ門が日本に居ることを知った夕羅に引っ張り出され、夜も遅いというのに車に乗せられている。
なんの説得力もない言葉と強引さに、いつものせられてしまうのはなぜだろう。
車は柵に囲まれた門の前に止まった。門の前には数人が立っており夕羅を出迎えた。
「首尾はどうだ」
「何の問題もございません。明後日も同じようにご準備できるかと」
「そうか」
夕羅はご苦労とでも言うように手を振り、門をくぐった。五右ェ門も後を追う。その後から付いてくる者は誰も居なかった。
柵の中は真っ暗で、道沿いにも桜が咲いているようなのだが、星明りの中でぼんやりと確認できる程度だった。足元の見えない中を、五右ェ門は夕羅に遅れまいと必死で付いて行った。
それでもしばらく行くと、前方に揺らめく炎の色が木々を透かして見え始めた。
近付くにつれ、周りの桜は鮮明になり、梢はより暗い色に沈む。轟々と空に向かって立ち上る炎の真中に、舞台が見えた。
桜の園の真中に建てられた舞台は、仮設とはいえ立派なものだった。
背景を置いておらず、桜の老木が松の絵の代わりに堂々とそびえる。
「明後日になれば人で埋まる。今日なら誰もおらん」
夕羅はそのまま舞台に上り、空を見上げる。
五右ェ門は段の半ばに足を掛けて、振り返った。
辺り一面に松明が灯され、明々と輝く。
その光に照らされ、白い花が自ら発光しているように見える。
暗い空が、それを引きたてる。今だけは、星に目がいかない。その下の白い光に目が奪われる。
少し数が多すぎるようにも思える松明の炎のせいで、寒さは感じなかった。
五右ェ門は舞台に寝転がって空を見上げた。
舞台の上にも、桜の巨木が枝を広げて空を覆い隠している。
「空が白い…」
思わず五右ェ門は声を上げた。
その目が子供のように輝いている。
舞台の上に立っていた夕羅は、五右ェ門とは逆向きに足を投げ出して寝転んだ。頭がちょうど五右ェ門の横に来る。
その髪が、桜の木の向こうの、銀河の流れをなぞるように舞台を埋める。
「確かに…詩人だな、そなたは」
夕羅もまた空に目を奪われ、五右ェ門の方も見ずに呟いた。
風が吹き、何枚かの花びらが舞った。
あと数日もすれば全てが消える。この空も、新緑に埋め尽くされるのだろう。はかなさとは違う、確かな春の息吹が。
「ずっとこのままだといい…」
五右ェ門が空に向かって両手を伸ばした。景色を全てこの手に掴み取ろうとするかのように。
「すぐに消えるから、美しいのだ…また来年来れば良い。春が来る度繰り返すのだから」
夕羅の右手が空へ掲げられる。広げた指の間から、空を透かし見る。
繰り返される光景。だが同じではないことを自分が一番よく知っている。
今年は、独りではない。
「また、見られるだろうか…」
答えた声が不安に揺れる。
「また…誘ってくれるか…?」
名残惜しげに下ろした両手を額に当て、五右ェ門は夕羅の方を見ずに問い掛ける。
「誘えば来るのか?もうそなたがこないかもしれん…五右ェ門」
皮肉な口調でそう言いながら、空を透かした指を夕羅は唇に押し当てる。大切なものに触れた名残りを惜しんで。
「断ったことなど、一度もない…そうだろう、夕羅」
「…そうだな」
夕羅は目を閉じる。白い空が瞼の裏に広がる。ずっと、このままだといい…
「…ならば、また会える…」
夕羅は初めて五右ェ門の方を向いた。
同じように振り向いた五右ェ門の瞳が、炎を受けて滲み、揺れる。
思いがけず近かったその顔を見返し、夕羅はそっと微笑んだ。
驚いたように目を見開いた五右ェ門だったが、逃げようとはしなかった。
二人の唇が静かに重なった。