crossing
ホテルのロビーはごった返していた。高級ホテルというものは不況とは無縁であるらしい。
外を歩く人々とは異なる人種が群れ集っている。
そしてその中を歩く五右ェ門も、一般の人々と異なる人種ではあった。
ホテルに相応しく正装し、目立たぬように歩いている。
ロビーを抜け、角を曲がる。日本庭園に面したガラス張りの廊下を行く途中だった。
「…っ!?」
いきなり手を掴まれ物陰に引き込まれると、後ろから抱きすくめられた。
「…夕ー羅ーッ、おぬしという男は…」
このようなことを平気でしてくる男は一人しかいない。振り向いた五右ェ門は、その見知った顔を睨みつけた。
「そんななりをしているから、一瞬わからなかった…珍しい格好だな」
きちんと羽織袴を身につけた五右ェ門を楽しそうに上から下まで眺め回している。
「…なんでここにいる」
夕羅の腕をすり抜け、うんざりした顔で五右ェ門は言った。
五右ェ門が夕羅から離れたのとほぼ同時に、彼らの横を人が通っていった。老舗の高級ホテルといえども羽織袴姿の人間などほとんどいない。珍しそうに横目で見ながら客は去っていった。
後ろ抱きにされている姿まで見られたらなんと思われることやら。
「それはこっちのセリフだな。ホテル暮らしでも始めたか?」
夕羅の視線を避けるように、五右ェ門は廊下に敷き詰められた絨毯へと目をやった。
「来週このホテルの宴会場で、関係者のみのダイヤのレセプションが行われる…その下見だ」
そう言ってからはっと気付いたように五右ェ門は顔をあげた。
「まさか、おぬしもその為に来たわけではあるまいな?」
「そんなものに興味はない。だいたい下見だったら部下に任せている」
「だったら何しにきた…まさか拙者の後を付けてきたのか」
その言葉を聞くと夕羅は吹き出し、庭園の方を向いて声を殺して笑い出した。
「…なにがおかしい」
「いや…すまん、いつからそんなに自意識過剰になったのかと思って」
まだ笑いの止まらない夕羅の言葉に、五右ェ門は真っ赤になって吐き捨てた。
「おぬしがいつもいつも似たようなことをしてくるからだッ!」
「…そうか?ま、今回に関しては偶然だ。この先の離れを借り切っていてな。月虎会の会合がある…企業や政治家と親睦を深める為のな」
夕羅は唇の端を歪めて笑った。
親睦を深めるというのは、札束が乱れ飛ぶことを意味するのだろうか…と五右ェ門はこっそり考えた。道理で金持ちとはまた違った人種がロビーをうろついていると思った。
「それにしても、日本に来たのなら連絡くらいくれてもよいのではないか?冷たい男だな」
「…おぬしに会う為に戻ってきたのではないッ。だいたいお前だって、いつもどこにいるからわからないのだから連絡のしようがないだろうが!」
「だったらちゃんと教えといてやろうか…?」
五右ェ門の瞳を見据えて夕羅がその白磁の肌に手を伸ばす。顎に手を添え仰向かせた。夕羅の顔が五右ェ門に近付く。
五右ェ門は引き込まれそうになりながらも、なんとか夕羅の手を振り払った。
「しっ、仕事だからもう行くからなっ。付いてくるなよ!」
指を突きつけんばかりの勢いでそう言って夕羅の横をすり抜け、足早に立ち去った。
「…また後でな」
その懸命に夕羅から逃れようとする背中を見送って呟き、夕羅は五右ェ門が去ったのとは逆の方向に振り返った。
「俺にも連絡くらいくれてもいいんじゃねえかな」
夕羅の視線の先に、ガラスを背に佇む男がいた。
夕羅の顔がほんの少し引きつる。
「…次元大介」
いつもと変わらぬ濃い紺の三つ揃えのスーツ姿。それでも多少、いつもよりきちんと着こなしているようだ。頭には建物内にも関わらず、スーツに合わせたソフト帽をのせたままだ。
唇に咥えた煙草の煙が綺麗な線を描いて天井に上っていた。
このホテル内は禁煙ではなかっただろうか…と夕羅は考えた。
「人の目かすめて逢引かい?いい度胸だな」
そう言いながら夕羅に近付く。唇が笑みの形を作っている。楽しんでいるのだ。
「立ち聞きするのは、いい度胸とは言わぬのか?」
夕羅も辛うじて笑みを浮かべて次元に対した。
「あんた目立ちすぎなんだよ。その目と、その髪と。立ち聞きされたくなきゃ、もっとわからない格好してきなよ」
立ち止まってしまった夕羅の方へと、次元はゆっくり歩いてくる。
「五右ェ門がいるってことはこの俺もいるってこと、忘れてもらっちゃ困るぜ」
夕羅の目の前で立ち止まる。目の位置が同じ高さにくる。
顔を縁取る髪に隠れた一つしかない瞳と、帽子のつばに見え隠れする二つの瞳が交錯する。
自分の方が背が高かったはずなのに…夕羅は困惑しながらもその目を見てしまう。
「なあ、月虎のお殿様」
次元は右手を伸ばして、夕羅の左眼に触れた。指に染み付いた煙草の匂い。
夕羅にそんなことをできる人間は他にいない。
左眼を手で覆ったまま、親指で夕羅の唇を撫でる。
屈辱なのか、快感なのか、夕羅の唇がかすかに震える。
「五右ェ門は可愛いからねえ…あの頃のあんたみたいに」
夕羅の頭を抱き寄せ、次元は耳元で囁いた。
「今のあんたも結構可愛いぜ…せっかく日本にいるんだ。たまには俺の相手もしてほしいやね」
次元の肩越しに、夕羅はガラスに歪む自分たちの影を見ていた。その中にぼんやりと浮かぶ緑の庭。
「ちゃんと俺にも居場所、教えてよ」
夕羅の一つきりの瞳を見据え、次元は笑った。いつの間にか左手に移っていた煙草を夕羅の口に押し付ける。
「俺も仕事があるんでね。また後でな」
そう言って肩越しに手を振り、次元は去っていった。
「…くそっ」
角を曲がった次元の姿が見えなくなると、夕羅は吐き捨てた。
左手を上げ、さっきまで次元の手が覆っていた部分に触れる。その指が頬を伝い、唇にさわる。まだ煙草の匂いがする。唇から立ち上る煙とは違った煙草の匂いがまとわりついてくる。
背後から気配がした。夕羅を探しにやってきた、月虎の手の者だった。低い声で告げる。
「皆が揃いましたので、そろそろ…」
「わかった」
振り向きざま、部下の手に次元が残していった煙草を渡す。
「処分しておけ」
思いがけないものを手渡され、部下は驚いた顔で夕羅と手の中の物を見比べている。
夕羅はそれきり何も言わず、廊下を歩き出した。
「よ、頑張ってるかい」
「次元」
ふいに現れた男の姿に、五右ェ門は眉を寄せる。
「もう終わったのか…?おぬしの持ち場は違うはずだが」
「あれ、そうだっけ?じゃ曲がるとこ間違えたな。ホテルってのはどこも似通ってからねえ」
空を仰いで次元は唸った。
「スタートから辿らないと思い出せそうにないな…」
首を捻って考え込む次元の姿に五右ェ門は微笑を誘われる。
「じゃ戻るわ」
ふいに五右ェ門に顔を寄せ頬に軽く唇を触れると、次元は戻っていった。
唇と同時に触れた髭の感触に目を細めた五右ェ門の視線の先を悠々と去っていく。
「…おかしな男だ」
見送って五右ェ門は呟いた。
なんだか妙に機嫌がいい。今日は初めからあんなだっただろうか。
「天気がいいからか…?」
そんな単純な男でもなかったはずだが。
五右ェ門は吹き抜けになっている天井を見上げた。曇りガラスから注ぐ陽光。
皆悩みがなさそうで結構なことだ。五右ェ門は頭を振ると、歩き出した。
行く手にはまた別のロビー。相変わらず人で賑わっていた。