山百合の墓
3.百合音
「ゆりね、よ」
縁側に招かれ腰を降ろした夕羅に、そう少女は名乗った。
近くで見るとゆりねは夕羅よりも多少大人びた顔立ちをしていた。
夕羅はどうしても左肩に行きそうになる視線のやり場に困ってゆりねの顔を見つめていた。その顔に漂う悲しみとも疲労ともつかない色も夕羅を居たたまれなくするのだが。
「百合の音と書いて”ゆりね”。根っこではなくってよ」
そう言うゆりねの瞳だけは、生気を持って輝いている。
「あなたは月虎夕羅ね…月虎の次期お殿様」
そう言ってゆりねはくすくすと笑った。夕羅はむっとしてゆりねの顔を見返した。
「なぜわかった…この目のせいか」
思いがけず怒気を含んだ夕羅の問いにゆりねは軽く瞬きをし、夕羅を見つめた。
「この土地に住む者であなたを知らない人間はいないわ。この私だって知ってるもの」
この土地に居る限りついて回る、自分とはかけ離れ誇張された自分の名。
ゆりねは更に夕羅を覗き込んで、内緒話をするように自分の唇に指を押し当てた。
「私はあなたと逆ね。ここでは誰にも知られない人間…」
そう言って一瞬、今までとは違う笑みを浮かべたゆりねの顔は、その言葉と共にいつまでも夕羅の脳裏に焼きついた。
その帰り道。
未知の世界を覗いた興奮と、月虎の暗部を垣間見た薄ら寒い想いが交互に夕羅を襲い、帰途に着く足を鈍らせた。
ゆりねとの会話ひとつひとつを思い出しながら夕羅は歩いていた。
ゆりねを初めて見た時。
きっと自分は、初めて片目のない自分を見た人間と同じ顔をしていた。
自分では決してしないだろうと思っていた表情と、感じることのないと思っていた感情。
そんな相手を憎んできたはずなのに、立場が変われば自分も同じ事をするのか?
しょせん自分も偽善者なのか?
自分の痛みを懸命に守ってきた自分なのに、…人の痛みなどわからないのか。
視線を彷徨わす夕羅の葛藤を知ってか知らずか、話の途中でゆりねは自分の左肩についてさりげなく触れた。
「小さい頃に、病気で腐って取れたんですって。小さすぎて知らないけど。気が付いたときにはもうなかったわ」
自分のの左眼と同じ。
「同じね…左側」
ゆりねは自分の左眼を瞑ってみせた。
「はあ」
夕羅はそう答えるしかなかったのだった。
――変な女。
二度と足を踏み入れたいと思わないような場所に生きる不思議な少女。
荒涼とした心がゆりねを思い出す度にふと軽くなる。
そうして夕羅は、ことあるごとにこの地へと足を向けるようになった。
4.生き死にの権利
父親が大勢の部下を引き連れて出かけていった。当分戻ってこないだろう。
また何かを奪いに行ったのだ。
そして帰ってくるたび、人が減る。
父親が出かけた後の屋敷はどこか静かだ。
普段からこの土地にはほとんどいないし、いても見かけることはない。それでも不在と言われると物寂しい気持ちになるのだから不思議だ。
屋敷にいる者たちはどことなく沈んでいるように見える。
うっとうしい。
夕羅はいらいらしながら庭に面した廊下を歩いていた。
後ろからぱたぱたと足音が聞こえてくる。夕羅は嫌な気分で振り返った。
「あにじゃー」
渡り廊下の向こうから、おぼつかない足取りで妹の威音がかけてくる。
普段なら必ず付き添っているはずの乳母の姿は見当たらない。
いれば、威音を自分などに近づけようとはしないだろうに。
年が離れすぎて、兄弟という実感も湧かない。
下の弟はまだ生まれたばかり。だが、大きくなれば、あれは自分の脅威となるかもしれない。
あの弟が大きくなる前に自分の地位を固めること。それが弟が生まれてからの、夕羅の決意だった。
その点で、弟は十分に夕羅を意識させる存在だった。
妹など居ても居なくてもどうでもよく、なぜ自分を慕うのか理解できない。
「あにじゃ、どこにいくのですか」
首を傾げて夕羅を見上げる。最近必ずする、威音のとっておきのポーズだ。これをすると周りの人間が喜ぶので癖になっているらしい。
「いおんもつれていってください」
母親に似た綺麗な顔立ち。大きくなればもっと整って、さぞかし美しくなるだろう。大きく開かれた、見上げる瞳はふたつ揃って自分の姿を映している。
五体満足な妹。
とっさに夕羅は、自分を掴もうとした威音の身体を蹴りつけていた。ぺったりと廊下にしりもちをついて、威音は何が起きたかわからずに目をぱちぱちさせている。
兄が自分を蹴ったなど、思いもしないのだ。幼すぎて。
「…餓鬼が」
低く吐き捨てて、夕羅は廊下を飛び降り庭をかけて行った。後ろから、火のついたように泣き出した威音の声が響いてきた。
「健康な人間には、命を粗末にする権利があるわ」
父親が出かけていっては死人を増やすという話をしていた時だった。
夕羅は脱ぎ捨てた足袋を片手にぶら下げて玩んでいた。
すっかり汚れてしまっているが、帰りもまたこれを履いて戻らねばならない。
裸足で帰るのもいいか、と夕羅はぼんやり考えていた。素足で草の中を走るのも気持ちが良いかもしれない。そんなことは今までしたこともないが。
足を汚して戻ろうが、着物を破いて帰ろうが、夕羅は叱られることなどないのだから。
ゆりねの言葉に、夕羅は顔を上げた。
ゆりねは特に変わらない表情をしている。
いつも彼女の言動は読めない。普通の顔をしてとんでもない事を言い出すこともある。
本人はおかしな事を言っている自覚がないのかもしれない。
「…そんなものかな」
「そうよ」
前方の森を見据えたまま、ゆりねは断言する。
「私にはないの。私が命を粗末にすることは許されないの。私は最後まで精一杯生きなければいけないの」
「………」
言葉の意味を理解しかねて、夕羅は黙ったままゆりねを見ていた。
「だっていつ死んでもおかしくない人間だから」
初めて夕羅を振り向き、ゆりねはまた謎の笑みを浮かべる。
「五歳まで生きられない、十歳まで生きられない、十五まで生きられない…もう聞き飽きたわ」
右手を頬に当て、ゆりねは夕羅を覗き込んだ。
自分を見つめる瞳の奥に閃く光。その光の意味を知りたいと夕羅は願っていた。
でないとこの女の話にはついていけないから。
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