山百合の墓

1.月虎の里

 月虎の里。
 そう、そこに住む者たちは呼んでいた。
 元々名前のない土地であった。いつからそこに住むようになったのか、自分たちはどこからやってきたのか、知る者は少ない。
 その土地自体についても、全体を把握している者はまれであった。
 月虎を統べる者でも知り尽くしているかどうか。
 それに、そんなことに関わっている余裕はそこに住む者たちにはなかった。現実はより厳しく、忙しく、刺激的で。
 謎はいつまでも謎のままだった。

 その場所は、秘密の多い月虎の里の中でも更に秘められた場所だった。
 子供たちの間ではお化けが出るだの、昔誰が自殺しただのとまことしやかに語り継がれていた。中心地から離れすぎていたため、そこまで行ってみようとする子供はさすがにいなかったが。
 幼い夕羅はそんな流伝とは隔てられていた。
 昔から、遊んでくれる相手がいなかったから。
 歳の近い子供たちは幾人かはいた。だが夕羅に近付こうとはしなかった。

 ――党首の子だから。

 恐らく子供たちはそう思っていただろう。

 ――片目の子だから。異形の子だから。

 夕羅はそう思っていた。
 夕羅は物心つくかつかないかの時に病気で片目を失った。
 片目だけで済んだのは幸運だったと乳母は何かにつけて言うが、夕羅はそうは思わなかった。
 幼い頃から、夕羅は全てにおいて抜き出ることを自分に課した。
 誰にも、片目がないせいだと言わせないように。
 父親に、長男にふさわしくないなどと思わせないように。
 自分の顔を見るたび、悲しそうに目をそむける母を、これ以上悲しませないように。
 俺は、片方の目で、全てを見、全てを手に入れる。
 夕羅はいつからかそう決めていた。

 他の子供たちと交流を持たない夕羅であっても、言い伝えはちゃんと知っていたし、本当はそこに何があるのかも知っていた。
 友達がいたら、ちゃんと真実を教えてやれるのに。
 だが、子供というものは本当のことを知るよりも、噂を信じることを面白がる人種だ。
 それも夕羅は知っていた。
 だから何もしなかった。どうせあと少しで十三になる。
 そうしたら夕羅はこの里を出て、父親の跡を継ぐ為の修行をせねばならない。
 奴等と交流するなど時間の無駄だ。
 夕羅はいつも一人だった。


2.忘却の里

 そこにはもうひとつの集落があった。
 先代の党首、夕羅の祖父の代に働いていた者たちがそこに住んでいた。側近と呼ばれた者たちだった。
 そして夕羅はそこには行ってはいけないと言われていた。はっきりと言われたわけではない。だがそういう空気が存在していた。
 なぜなら、その場所に彼らを追いやったのは現党首であったから。
 先代と確執のあった夕羅の父親は、先代が亡くなるとすぐに前の幹部たちをその土地へ追い立て、自分の気に入りの者で回りを固めた。
 老人たちは僅かばかりの土地と家、ささやかな金を貰って今でもそこで暮らしている。
 夕羅が住む屋敷とその周りを囲む家々。そこが中心地なら、その場所は中心地から丘と草原を隔てた山の際にあった。月虎の里の、本当に片隅にへばり付いているような集落だった。
 現党首の部下でさえ、怪我をして使い物にならなくなるとここへ送られた。

 姥捨て山。

 陰で人々はそう呼んだ。
 その場所は公然の秘密であり、党首の前で決して口にしてはならない事柄だった。
 夕羅はそういう、暗部を隠そうとする父親の姿勢が嫌いだった。
 どうせ月虎一族など、元より汚れた組織。
 それならば隠す必要などどこにある?
 今更いったい何に対して恥じるのだ?
 その反発だったのだろうか。
 ある日、夕羅はそこへ足を向けたのだ。
 自分の目でその場所を見てみよう、と。
 自分がいつも歩くお気に入りの場所を、子供たちに占領されていたこともあった。
 自分が向かう先に子供の一群を見つけた瞬間、夕羅は背を向けた。そのまま屋敷への道を戻ったが、屋敷にも帰りたい気分ではなかった。
 ここ最近、屋敷に自分の居場所がなくなりつつある。
 …あの餓鬼どもが生まれてから。
 そして夕羅は、ふっとそこへ行く気になったのだった。まだ日は高く、行って戻るのに時間は十分ありそうだった。

 あたりはひっそりと静まり返っていた。人が住んでいる気配が感じられない。建物はどれも掘っ立て小屋といったところで、今にも崩れてきそうだ。
 夕羅の住む屋敷に比べたら、物置とさえいえない。
 空気までよどんでいるような気がする。建物のすぐ後ろまで森が迫り、覆い尽くしてしまいそうだ。
 人の気配がないとはいえ、さすがに夕羅はその集落に足を踏み入れることが出来ずにいた。父親が追放した者たちが住む場所なのだ。もし自分が見つかったら…どうなるだろう。
 足音を忍ばせて、夕羅は集落の周りを辿ってみた。どれも同じように崩れかけた木の建物ばかり。
 森にもっとも近い一角に、ひとつだけ他から離れた家があった。さらに違うことはその建物は他と比べて妙に頑丈そうなことだった。
 ただ暗い雰囲気なことには間違いがない。
 そしてここも人の気配がない…と夕羅が思った時だった。
 奥の方でかすかに物音がした。
 夕羅はびくりとして、身体を硬くした。そっとあたりを見回すが隠れる場所などなく、今更逃げようがない。
 逃げていく姿を見られるよりは…と覚悟した夕羅はその場に立ち尽くしたまま、音のした方を睨みつけた。
 すうっと戸が開き、暗がりの中から瞳が覗いた。
 じっと夕羅を見つめる。暗闇の中で、ふっと笑い声が聞こえた。
「…珍しいお客様だわ」
 若い女性の声。女性というよりも少女だろうか。想像もしていなかった。
「お客様自体来ない場所なのに」
「誰…」
「驚かないでね」
 そういった声の主は戸を更に押し開き、姿を見せた。
 柱に上体を持たせかけ、夕羅を見つめる。
 細く少なく見える髪は短く刈り込まれ、顎のあたりで切り揃えられている。漆黒の髪。夕羅を見つめる瞳同様に黒々と光る。
 日に当たったことのないかのような白い肌はほとんど青ざめていると言ってよかった。透き通った肌に血管の青さが浮き出ている。
 薄い着物をまとった上からも、少女がやせ細っていることがわかる。袖から覗いた細すぎる右腕を縁側におき、上半身を支えている。座ることさえやっとという感じだった。
 そして左腕は…存在していなかった。
 着物の左袖はぺたんと垂れ下がり、そこから伸びるはずの手は見当たらない。
 夕羅は息を呑んだ。




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