山百合の墓

8.本当の別れ

 ゆりねに出会う前の日常へと夕羅は戻っていった。
 彼女の集落へと足繁く通ったことなど忘れたかのように夕羅は変わらぬ日々を過ごしていた。
 そんなある日。
 勉強の合間に外へと足をのばした夕羅は、またもや前方を子供たちの集団にふさがれ背を向けた。
 慣れた足取りで草地を横切り丘を越え…夕羅は足を止めた。
 自分がどこへ向かおうとしているか気付いたのだ。
 自分が向かっている先にはもう、誰もいない。
 何をしているんだ、自分は。
 戸惑って夕羅は立ち尽くした。
 屋敷に戻りたくはないし、かつてのお気に入りの場所は既に占領されている。
 …自分にはどこにも行く場所がない。
 初めて気が付いて、夕羅はその瞬間からじわじわと広がり始めた喪失感に怯えた。
 さわさわと鳴る草の音だけが夕羅の中に響いていた。
「夕羅様」
 突然声を掛けられ、夕羅は驚いてあたりを見回した。屋敷内はともかく、こんな場所で自分を夕羅様と呼ぶ人物には心当たりがない。おまけに回りに人の気配は微塵もないのだ。
 草むらの影から、一人の老人が音もなく現れた。擦り切れた着物を身にまとっている。
 夕羅の屋敷にはこんな身なりの者はいない。
 第一、老人だって見ないのだから。
 あの集落に住んでいる者だ、と夕羅は気付いた。
 ゆりね以外に見たことがなかったが、やはり人が住んでいたのだ。
 老人は夕羅の前に立ち、深々と頭を下げた。しばらくそのまま無言で佇む。ためらっているようだった。
 やがて老人は夕羅に向かって何かを差し出した。
「…ゆりねがこれを…」
「…ゆりね!?」
 驚いて声を上げ、夕羅は手を伸ばした。
 白い紙に挟まれたもの。開いてみると小さな花が一輪、押し花にされていた。本当に小さな、普通は捨ててしまいそうな雑草の花。
「大事に紙に挟んで取っておりました」
 なんとなく見覚えがあるような気がした。だが夕羅が花を持っていったことなど一度もない。
「…威音だ…」
 威音が渡した草の束の中に、そういえばわずかに花の付いたものがあった。それを彼女はわざわざ取り分けて持っていたのか。
 夕羅はしばらく呆然とその花を見下ろしていた。
「ありがとうございました」
 そんな夕羅に、老人は更に深く頭を下げて言った。
「………?」
「いつも夕羅様が来てくださって、あの子の話相手になってくださって…」
「…知っていたのか」
 どきりとして夕羅は呟いた。
「我々は夕羅様にお会いできる立場ではございません。…でもゆりねだけは好きなようにさせてやりたいと思いまして、止めませんでした」
 年老いたとはいえ、かつて月虎の中枢に居た者たちだ。人がいなかったのではなく、夕羅から身を潜めていたのだ。
 夕羅に存在を悟られないように。
 夕羅は自分の迂闊さに舌を噛みたくなった。
 本当に自分は何も知らない。
 この里で、自分がいかに守られているか。
「孫可愛さです。どうせ先の長くない子でしたから」
 そう言って老人は口元を歪め、苦く笑った。目つきがふっと遠くなる。
「…あの子も老人ばかりの住まいでは退屈だったでしょう」
「孫…」
 前党首の側近の一人であったこの老人の中から、夕羅はゆりねの面影を探ろうとしたが見つけることは出来なかった。かつて持っていたであろう鋭さの片鱗すら、もはや彼からは感じられなかった。
 何ものかが彼を蝕み、年齢以上の老いを彼に背負わせていた。
 だが、今夕羅の目の前に立っていてさえ、彼は生きている者の気配がないのだ。
「それでは私はこれで…お引止めして申し訳ございませんでした」
 老人はきびすをかえし、再び草むらへと消えていった。ほんの一瞬丈の高い草が揺れ、それきり静まり返る。
 まるで最初から何もいなかったかのように。
 夕羅の手の中に、綺麗に挟まれた押し花だけが残されていた。

 老人が消えた方向をしばらく見守ってから、夕羅は改めて自分の手元に目を落とした。
 息を吹きかけたら、飛んでいってすぐにでも見失ってしまいそうな小さな花。
「こんなの…大切に持ってること、ないのに…」
 思わず口の中で呟いた。
「もっとちゃんとしたやつ…」
 ぽたり、と掌に水滴が落ちた。
 それに続いて更にぽたぽたと零れ落ちる。紙の上にも、花の上にも。
 後から後から湧いてくる涙を止められず、夕羅は嗚咽を漏らした。
 酷い。
 こんなに簡単にいなくなるなんて。
 こんなものしか残さないでいなくなるなんて。
 なのに自分は忘れようとした。
 生きていたのに。
 ゆりねはちゃんと生きていたのに。自分と会ったのに。
 夕羅は初めて、声を上げて泣いた。


 その後すぐ、13歳になった夕羅も父と共にこの里を去ることになる。
 別れの時、びーびー泣いて縋り付く威音を、夕羅は初めてしっかりと抱きしめてやった。
 すぐに戻ってくるから。とも言って。
 本当は、当分この妹の顔を見なくて済むと思う気持ちの方が強かったのだったが。




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