山百合の墓
6.威音と百合音
「あにじゃ」
ふいに足元でした声に、夕羅はぎょっとして振り向いた。
威音がうれしそうに兄を見上げている。
ゆりねのところへ行く途中だった。
と言っても、足を進めながらも行くべきかどうかまだ夕羅は迷っていた。だからわざと回り道をしてお気に入りの場所に立ち寄ってみたのだ。
その結果がこれか。もうこの場所は自分の物ではないのかもしれない。
「あにじゃ、どこにいくんですか」
草を手にたくさん握り締めたまま、威音が夕羅に問い掛けた。自分では花束でも作ってるつもりかもしれないが、どうみても引きちぎった草の塊だ。
この間夕羅が何をしたのかも知らず、こりずに兄に擦り寄ってくる。
面倒なやつに出会ってしまった、と夕羅は舌打ちした。さっさと誰かに押し付けるに限る。
「いおんもいきます」
だが、周りを見回してもお付きの者は見当たらない。
「一人なのか?他の者は」
「あっち」
草で汚れた手で遠くを指差す。その先を見ても人影は見当たらない。花を摘むのに夢中になって、一人遠くまで歩いてきたのだろうか。
今ごろ乳母たちは必死になって探しているに違いない。
そう思ったら、夕羅はこの妹を連れて行く気になった。
この間のゆりねの言葉を思い出すと、二人きりになるのを避けたい気持ちもあった。もしかしたらゆりねはもう居ないかもしれないという恐怖感も。
「…一緒に行きたいか」
「はい!」
うれしそうに威音が声を上げた。
「俺と一緒に行ったことを誰にも言わないって約束できるならな」
「やくそくします」
「絶対だ」
「ぜったいに、ぜったいにやくそくします」
生真面目な顔で、威音は繰り返した。
「…後悔するなよ」
口の中で呟くと、夕羅は威音の手を取り足早に歩き出した。威音は転びそうになりながらも懸命に小さな足で兄に付いていった。
古びた建物は、いつ見ても来る者をめいらせる外観で夕羅を出迎える。
二人の足音に、戸がそっと開かれた。ひっそりと覗く。
「あら…」
夕羅以外の足音に不信に思っていたのだろうゆりねは、威音を見て軽く目を見開いた。
いつもと変わらないゆりねのその様子に、夕羅は心の中で安堵した。すっかり元気になったようだ。
「妹君ですの?」
普段物怖じしない威音は、夕羅の足の後ろからそっと覗いている。時々兄の顔を見上げて問い掛けるような瞳になる。
「妹の、威音だ」
そう言って、夕羅は威音を引き離し前に押し出した。
「こんにちは」
ゆりねは襖を開ききると、前に乗り出した。
「…こんにちは」
威音はおずおずと大きな瞳を伏せて上目がちにゆりねを見上げ呟いた。そうしてから不安そうに夕羅を振り返る。
「普段はもっと元気があるのだが」
突き放したように夕羅が言うと、ゆりねは軽く笑った。
「いきなり知らない人に会ったら誰だって驚くきます。いろいろ話は聞いてるわ、威音…ちゃん?手に持ってるのは何かしら?お花?」
夕羅がゆりねの前の縁側に腰を下ろすと、威音も後を追うように縁側の前に立ち、手に持っていた草の束をゆりねに差し出した。
「くれるの?」
「…ん」
「そう、ありがとう」
夕羅の目にはやはりどう見ても雑草の切れ端の束を、ゆりねは恭しく受け取った。その時、左手がないことに初めて気が付いた威音は驚いて目を見開き、兄を振り返った。
夕羅が表情も変えずに見返すと、威音は黙って兄に身体を寄せた。その身体がかすかに震えている。
夕羅は気付かなかった振りをして、威音を抱き上げ縁側に座らせた。ゆりねと自分の間に。
帰り道、夕羅にとっては腹立たしいことだったが、威音は遊び疲れたのか緊張し疲れたのか、歩けないとぐずり出し抱いて帰る破目になった。
「あにじゃ」
静かに抱かれていた威音に眠っているものと思っていた夕羅は、突然話し掛けられて驚いて立ち止まった。
「何だ」
起きているのなら少しは歩いてほしい、とますます腹を立てて夕羅は答えた。鍛えているとはいえ、子供を抱くのは慣れていない。威音は既に重く、軽軽しく抱ける歳ではもうないのだ。
「どうして、きょうあの人にあったことはないしょなのですか」
「もし話したら、俺が父上に怒られる」
簡単に夕羅は答えた。
「母上にも怒られるだろうな。別にお前は怒られないだろうから言ってもいいけど」
「ぜったいいいませんっ」
子供相手に卑怯な誘導尋問だな、と思いながら、夕羅はやすやすと引っかかった威音の宣言を聞いていた。
東の空は既に暗くなってきていた。威音が帰るには遅すぎる時間だった。
威音のお付き達への言い訳も考えなければならない。
どうせ自分の言うことなど、信じもしないが、疑いを挟むこともしないだろう。
「…あの人、あにじゃと一緒でした…」
耳元で、威音が半分眠った声で呟いた。夕羅はぎりっと奥歯をかみ締めた。