山百合の墓

5.天使と妖精、天国と地獄

 その日は珍しく雨が降っていた。
 しばらく夕羅はゆりねに会えずにいた。
 普段は夕羅が訪れると襖をあけて顔を出すのだが、ここ数日は行っても姿を見せず、空振りの日が続いていた。
 会えずにまた長い道のりを戻ることほど、気がめいることはない。
 夕羅も毎日暇を持て余しているわけではなく、学問やら剣術やら、最近加わった帝王学やらとやることは山ほどあるのだ。
 ゆりねに振り回されてばかりはいられない。

 午後。
 雨で剣術の授業が流れて、夕羅は中庭を囲む廊下で外を眺めていた。
 広い廊下で一人、素振りをしているつもりなのだが気が付くと手が止まって空を見ているのだ。
 何度か同じ事を繰り返した末、夕羅は無意識に木刀を放り出した。
『木刀といえど刀と同じ、扱いは慎重に』
 常にきつく言われていることを庭に放った瞬間に思い出したが後の祭り。木刀は音をたてて地面を転がった。
 夕羅は溜息をついて庭に下りた。
 もうすぐ真剣での訓練が始まるはずだった。こんなところを見られたら延期されかねない。
 柄にもなく、夕羅はあたりをうかがってしまった。
 拾い上げ、空を見上げる。雨粒はさほど大きくはないがひっきりなしに落ちてくる。止む気配はないものの、雲は薄く空は明るかった。
 廊下に囲まれ、出口のない中庭に立っていると息が詰まりそうになる。
 何もかもがのしかかってくるようだ。この屋敷も、空も、雲も。雨さえも。
 夕羅はのろのろと廊下に上がり、木刀を仕舞いに行った。
 今日もゆりねのところへ行ってみよう、と夕羅は思っていた。

 夕羅が近付いても、やはり今日も戸は開かなかった。
 夕羅はしばらくじっと板戸を見つめて立っていた。待っていても仕方ないと思いながらも、帰れず、だからといってどうしたらいいのかもわからない。
 途方に暮れた顔で夕羅は雨に打たれていたが、やがて意を決して静かに建物に近付いた。
「…ゆりね」
 小さく夕羅は呼びかけた。
 聴こえるはずもないと思ったが、そうしなければあきらめがつかなかったのだ。これで反応がなければ帰ろうと、心に決めていた。
 雨が足元の草に落ちる音だけが、静かな空間にこだまする。
 夕羅は溜息をついた。今日もだめか。
 振り返ろうとした時だった。
 微かな声が聞こえた。
 だが相変わらず扉の開く気配はない。
 夕羅は更に建物に近付いた。濡れた縁側に膝をかけ中をうかがう。
「夕羅?」
 ゆりねの声がした。
「…ああ。ゆりね…?」
「動けないの。入ってきてくれるかしら」
 今まで自分からその戸を開けたことはなかった。いつも縁側に腰を降ろすだけで、中を覗いたこともない。
 夕羅はためらいがちに戸を押し開いた。
 中は薄暗かった。外の明るさに慣れていた夕羅の目には何も映らない。
 目を凝らし、なんとかゆりねの位置を確認することはできた。
 狭く、暗い部屋の真ん中に布団が敷かれている。そこに彼女は横たわっていた。目が慣れるにつれ、少しずつ部屋の様子も見えてくる。
 何もなく古びた室内はしかし、なぜか清潔感があった。ゆりねでないのなら、毎日掃除をする人間が他にいるのだ。
 夕羅には意外だった。ゆりね以外に人が居るなど今まで考えたこともなかったから。
「戸、閉めてね」
 小さくゆりねが囁いた。
 戸を引くと、ようやく目が慣れかけていた夕羅の視界がまた閉ざされる。夕羅は手探りでゆりねの枕もとに近付いていった。
 ゆりねは頭だけをこちらに向けて夕羅を見ていた。
「だめね、その戸口までもいけないなんて。もう年かしら」
そう言ってゆりねはくすくす笑った。その笑い声と瞳の光だけはいつもと変わらなかった。
「今日は雨なの?」
「ああ」
「何度か来てくれたのかしら?一度だけ足音を聞いたように思ったのだけれど、本当に動けなかったのよ。今日はまだましな方ね。声は出るもの」
 夕羅は何も言えずに室内を見回していた。
 窓のない部屋だった。
 それでもどこからか光が入るのか、完全な暗闇ではない。天井は低く、立ち上がったら夕羅の背でも届いてしまうのではないだろうか。
 しばらく夕羅を静かに見ていたゆりねは、右手で頭を支えるような格好で半身を起こした。
「ね、私と寝てくれない?」
「…はぁッ!?」
 何を言っているのだ、この女は。
 夕羅は驚いてゆりねをまじまじと見てしまった。ゆりねはしごく真面目な顔で見返してくる。
 だんだんと自分の顔が赤くなっていくのがわかって、夕羅はこの部屋が暗いことを感謝した。
「そんなに驚くことないじゃないの…冗談よ」
 冗談にしてもたちが悪い。
「もう私には男と寝る体力もないそうだから」
 にっこりと笑ったゆりねの顔を見ながら、夕羅は力が抜けていくのを感じていた。
 動揺した自分が馬鹿に思えてきた。
「でもそれって私と寝れば、私を腹上死させられるってことよ。どう、やってみる?」
「なんでだよ…」
「武勇伝になるかも」
 病弱の女をやり殺したなどと、たいした武勇伝だ。そんな伝説を背負った月虎の党首になりたくはない。まだ党首になれるかどうかもわからないが。
「でも腹上死って普通は男よね…」
 真剣な顔でゆりねは呟いている。夕羅は今日来たことを後悔し始めていた。
 体はまだ完全に回復していないのに、口だけは達者によく動く。ここしばらく話も出来なかった反動かもしれない。
「処女のまま死ぬと、天使か妖精になって一生この世界を彷徨うことになるんですって。だから私、処女のまま死にたくはないのよ」
 こういうのって俺が聞いてもいい種類の話なんだろうか…。
 お付きの女性たちが休憩時間にこそこそ話をしているたぐいのものと同じ気がするのだが。
 他に話す相手が居ないからって俺に話すのはどうなんだ。
 いたたまれない夕羅が懸命に頭をめぐらせている間にも、ゆりねは話を続けていく。
「天使や妖精になるのも素敵だとは思うけれど…私は天国でも地獄でもいいから、どっちかにいきたいの。天国へ行けるかどうかはわからないけど」
 夕羅の背後の暗い空間を見据えたまま、ゆりねは考え込む表情になった。
 天使も妖精も、天国も地獄も、夕羅にはまったく現実味がなく考えも及ばない。どうしたらいいのだろう、とこちらも途方に暮れて考え込んでいた。
 やがてゆりねがゆっくりと口を開いた。
「…この世を彷徨うのも、ひょっとしたら結構いいものかしら。あなたが居るもの…知ってる人が居るなら楽しいもの」
 そうして夕羅を見て微笑み、しかしすぐに眉を寄せた。
「でも、いつかはあなただって死んでしまうわね。死んで…天国へ行くの?」
「…天国なんか、いけるわけない」
 ついむきになって夕羅は答えた。
 この里に生きる人間はきっと一人残らず地獄へ行くのだ。特に党首はその最たる者だろう。
「そうね…私も地獄がいいわ。きっと皆そこにいるのでしょうから」
 おそらく夕羅と同じことを思ったのだろう、ゆりねはくすり、と笑った。そして更に思い出したように笑い、言葉を継いだ。
「ねえ、知ってる?昔は、少女が死ぬと庄屋が葬る前に、その子を犯したそうよ。現世を彷徨わせないために」
「…はあ」
 その知識は一体どこから仕入れるのだろう、と夕羅は既に疲労した頭で考える。
「さしずめ月虎なら党首かしらね」
 それはどうだろうか。
「…あなたがもう少し大きかったらいいのに…あなたが党首だったら良かったのに…」
 ふいに真剣な響きを帯びたその言葉に、夕羅は彷徨っていた視線をゆりねに戻す。熱っぽい光を宿したゆりねの目が夕羅を見据えていた。
「どうしてあなたはまだ子供なの…?」
 …自分だって大して変わらないくせに。
 理不尽な要求を突きつけるゆりねに夕羅はそう言いたかったが、熱に浮かされたようなその瞳に言葉を飲み込んだ。
「…もう、帰らないと」
 それだけ言って、夕羅は立ち上がった。




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