うたかたの月

第三章

1.
 月虎一族の襲撃を受けたのは、突然のことだった。
 気付いた時にはすっかりアジトを包囲され、抜け道という抜け道は全て塞がれていた。
 とはいえ、そこはルパンのアジトのこと。三人は更に深く隠された抜け道からそれぞれに別れ、もう1ヶ所の隠れ家を目指したのだった。
 月虎一族から横取りした財宝のほとんどを置いていかねばならないことだけが心残りであった。


 目指すアジトは、高台の上にある。周りは断崖絶壁で、眼下には深い川が流れる、ほとんど人の近付かない場所だった。
 五右ェ門は一番近いルートを通っていた。間もなくアジトの入口が見えようかというところまで来て、彼の足は止まった。
 慌てて身を隠す。
(ここも、か…)
 月虎の配下の者達が先回りしていた。
 ここにもルパンは残りの財宝を隠していた。ここも押さえられたということはほとんど全ての品を奪われたことになる。
 例の掛け軸だけは、何かの時に取り引き出来るように別の場所に隠したと聞いていた気もするが…。
 それよりも今はここから立ち去ることが五右ェ門にとっては最優先事項だった。緊急時の待ち合わせ場所へ戻らねばならない。
 静かに元来た道を引き返し、分岐点となる廃屋にさしかかる。
 建物の角を曲がった五右ェ門は、思いもかけない人物と鉢合わせすることとなった。
「月虎…ッ!」
「…?!」
 驚いたのは双方同じであったが、五右ェ門の方は一瞬戸惑い、それが命取りとなった。
 夕羅は何のためらいも見せず、五右ェ門の右肩を殴りつけた。完全に癒えてはいない傷跡をしたたかに殴られ息が止まる。さらに容赦なく夕羅は五右ェ門の頬を張った。
 構える間もなく加えられた攻撃に、五右ェ門の身体は地面に崩れた。倒れた五右ェ門の両腕を夕羅は後ろ手に捻り上げた。
 捻られた腕を引っ張られ、無理やり立たされる。
「げ…っこ…ッ」
「この男は使えるな」
 痛みと屈辱に耐えかねてうめいた五右ェ門に対して、夕羅は静かな声で周囲の部下に告げ笑みさえ浮かべてみせた。


「…ッ?!」
「五右ェ門…ッ!」
 険しい崖を登り切ったルパンと次元は、その先の断崖に立つ夕羅と、その腕に捕らえられた五右ェ門を目に言葉を失った。
 おまけに敵の本陣の目の前に出てしまい、対処の仕様もない。
 二人に向かって一斉に銃弾が飛び、慌てて付近の岩に身を隠す。
 五右ェ門と同じく、アジトの異変に引き返し落ち合った二人だったが、五右ェ門が来ない。
 嫌な予感に、アジトまでまた戻ってみればこの有り様だった。
「この者の命が惜しくば、残りの財宝のありかを教えろっ!ルパン」
 威音が楽しげに声を張り上げる。
「お前がわざと掛け軸を隠していることはわかってるぞッ」
「くっそ…あのアマ…」
 次元が岩の後ろで銃を構えながら、やり場のない怒りに毒づいた。
「御大将自ら、人質に刃物を当てなさるとはねえ」
「ンなこと言ってる場合じゃねえだろ、ルパン。どうすんだ」
 岩に隠れつつ敵の様子をうかがう。焦燥感を紛らわす為か、いつになく饒舌になる二人だった。
「大人しく教えたところで、五右ェ門返してくれる連中だと思うか?」
「月虎が一番欲しがってるモンは別の場所に隠しておこうってお前の作戦、大失敗じゃねえかよッ」
「ほんっとーに奪い返しに来るとは思わなかったんだよっ、熱くなっちゃって、バッカじゃないのか?あいつら」
「お前が言うなッ!」
 成す術もなく、二人は手をこまねいていた。

   五右ェ門はそんな二人の様子を黙って見ているしかなかった。
 夕羅の腕にしっかりと抱え込まれ、刀は喉元に据えられている。ぴくりとも動けないその腕の力に身体が悲鳴を上げていた。
 喉に押し付けられた刀が本気であることは、明白だった。
 後ほんの少しでも力を加えたら、薄い皮膚は簡単に破れるだろう。
 五右ェ門の背中に汗が流れる。こちらを見ようともしない夕羅の 冷酷な表情に、先程から身体の震えが止まらない。
 五右ェ門は何度も唾を飲み込み、その度に皮膚に刀が食い込むのを感じた。
 無力な自分が辛かった。
 ぎゅっと目を閉じて、五右ェ門はかすれた声でつぶやいた。
「……月虎…」
 聞こえるとも思えない微かな声だったが、僅かに夕羅が反応を示したのがわかった。
 五右ェ門は夕羅の顔を見るのが怖くて、視線を地面に落としたまま言葉を続けた。
「…確かに拙者とお主は敵同士…、しかし…拙者を匿ってくれたあの間…ほんの一瞬でも心が通じたと思ったのは…拙者の思い違いか…?あれはお主の気まぐれだったのか……?」
 自分でも思いがけないかったことだが、五右ェ門の瞳に涙が滲んだ。過ぎてしまえばなんでも思い出に昇華されるのだ、と五右ェ門はぼやける視界の中で考えた。
 夕羅の手が、緩んだ。押し付けられていた刀の圧迫感が薄れる。
 反射的に五右ェ門はその腕に噛みついた。
「っつ…!!」
 振り払おうとした夕羅の腕を全身で押しのける。バランスが崩れた夕羅の身体が、五右ェ門から離れた。
 次元はその瞬間を見逃さなかった。
 放たれたマグナムの弾は、正確に夕羅の肩を撃ち抜いた。
 夕羅の体は後ろによろめいた。崖の縁を踏み外し、宙に浮く。
 前にのめった五右ェ門の体は、夕羅から離れて地面に叩きつけられるはずであった。
 しかし。
「…っ?!」
 夕羅と共に五右ェ門の体も空を舞った。
 夕羅の腕が、五右ェ門の手を掴んだまま離れない。
「兄者!!!」「夕羅様ッ!」
「五右ェ門ッ?!」
 様々な声が交差する中、二人はもつれ合う様に落ちていき、崖下を流れる水の中へと吸い込まれて行った。

「夕羅様をお探ししろッ!」
「急げッ!!」
 もはや、ルパン達をかまう余裕などなく、月虎の配下の者達はあわただしく下流へと去って行き、崖の上にはルパンと次元だけが残された。
 次元はまだマグナムを握り締めたまま、蒼ざめている。
 ルパンは先程まで夕羅が立っていた場所に近付き、地面から刀を拾い上げた。
 夕羅が五右ェ門の喉元に突き付けていた刀だけが、夕羅の手から離れその場に残されていた。
 それは五右ェ門の斬鉄剣だった。
 その皮肉にルパンは唇を噛み、斬鉄剣を同じく落ちていた鞘に丁寧に収めた。
 次元を振り返り、声を励ましてルパンは言った。
「俺達も探そうぜ、次元。五右ェ門は月虎と違って傷を負ってない。きっと無事さ」


 水に落ちた五右ェ門は懸命にもがき、なんとか水面に浮かび上がった。流れは速く、何度も引きずり込まれそうになる。
 周囲を見まわし、共に落ちたはずの夕羅を探すが、姿は見えない。
「くそッ」
 舌打ちすると五右ェ門は再び水中へと潜った。暗い中で、遠くに沈みつつある夕羅の姿を見つけ、近付いていった。水の流れと、まとわりつく着物に邪魔され、思うように泳げない。
 苦労して夕羅を捕らえ、水面に顔を出す。
 夕羅は意識がなかった。五右ェ門が支えていないと水の流れに持って行かれそうになる。
 夕羅の顔を水面に持ち上げることで精一杯の五右ェ門だったが、かなり流された末、運良く澱みに引っかかり岸に這い上がった。
 川が湾曲して流れが緩やかになったそこは、両側に崖がそそり立つ岩場だった。
 大小の岩が転がる、足場の悪い河原を五右ェ門は夕羅を背負って歩いた。
 流されている間に思ったより体力を削られたらしく、踏みしめる足が震える。気を失った夕羅の体は重く、その右手から水と一緒に滴る血の色が気がかりだった。
 崖下の岩陰に夕羅を下ろし、五右ェ門は自分も崩れるように腰を下ろした。  だが一息つく間もなく、夕羅の方に屈みこむ。
 蒼ざめて横たわる夕羅は息をしていない。頬を叩いてみたがぴくりとも動かなかった。
 血の量も気になったが、それよりも息を吹き返させることが最優先だった。  何度か息を吹き込むと、夕羅は激しく噎せ、水を吐き出した。意識を取り戻し目を開いたが噎せ返り、更にその度に傷口が痛むらしく悶え苦しむ姿は、見ている方が辛い有り様だった。
「……大丈夫か…?」
 少しおさまってから、恐る恐る五右ェ門は聞いた。それまでとても声を掛けられる状態ではなかったのだ。
 自分の袂を絞り、口元を拭いてやる。一気に体力を奪われたようにぐったりしていた夕羅は、初めて五右ェ門に目を向けた。
「今血止めをするから…」
 何も言わない夕羅を抱き起こし、応急処置を施す。夕羅はされるがままだった。答える気力もなかったのかもしれない。
 血止めをし、岩に背をもたれさせてやると五右ェ門は辺りを見回した。崖は険しく、夕羅を連れて登るのは難しそうだった。
 五右ェ門自身も、冷えたせいか、泳ぎで体力を削がれたか、先程から眩暈がする。
「なぜ、助けた…」
 ふいに夕羅が口を開いた。その低い声がしゃがれている。
「わざわざ見殺しにする方がおかしいだろう」
 当然のように五右ェ門は言った。
「それにお主には借りがある」
 夕羅は五右ェ門の言葉を吟味するかのように、遠くを見やって黙り込んだ。
「お主の部下達が探しにくれば良いのだが」
 崖を見上げ、五右ェ門は言った。
「ここまで流されているとは思わないかもしれんな…」
 夕羅は何も答えず、目を閉じて痛みに耐えているようだった。頬に張り付いた髪が、より一層夕羅の顔を痛々しく見せている。他にすることもなく、五右ェ門はその髪をかきあげてやった。
 自分が助けを求めにいった方が良いだろうか。
 夕羅を眺めながら、五右ェ門は考え込んでいた。
 しかし、この状態の夕羅を独り放置するのも心配だった。

 頭上で声がした。徐々に近付いてくる。
 複数の人声。
 五右ェ門は一瞬身体を固くし、ふと気付いた。
「お主の手の者たちではないか。助けを…」
 飛び出そうとした五右ェ門を、夕羅の腕が掴んだ。そのまま岩陰に引きずり込む。
「なっ…」
 何をする、と言いかけた五右ェ門の口を夕羅の手が覆った。抱きすくめられて身動きが取れない。
「見つかればそなたが殺される」
 耳元で夕羅は囁いた。
 五右ェ門は夕羅から逃れようとあがいたが、夕羅は怪我人とは思えない力強さで五右ェ門を離そうとはしなかった。
「…頼むから静かにしてくれ…」
 耳元で懇願され、さすがに五右ェ門もこの状態で見つかるわけにはいかず、夕羅の腕の中でおとなしく息を殺した。
 声は二人の近くまで下りてきたが、やがて下流へと去り、遠くなった。
 声がしなくなってようやく、夕羅は五右ェ門を抱く手を緩めた。
「何を考えているのだ、お主はッ!」
 夕羅から逃れ、やっと大きく息をつくと五右ェ門は叫んだ。
「みすみす助かる機会を自分から逃すとは、お主は馬鹿か!死にたいのかッ?!」
「そなたほど馬鹿ではないつもりだが」
「………ッ」
 しゃあしゃあと答える夕羅に、五右ェ門は二の句が継げなくなった。
「…じゃあ、どうするつもりなんだ…」
 その時思いがけない電子音が響いた。懐を探った五右ェ門は、その音の源を取り出した。
 ルパンに無理やり持たされた携帯電話が、か細い音を鳴らす。怪我を負って行方不明になったこともあり、心配した二人から絶対に手放すなと言い含められていた。
 のだが、五右ェ門はもちろんすっかり忘れていた。
「…これ、防水だったのか…」
 つくづくと眺めながら妙なことに感心して、五右ェ門は危うく電話をとり損ねるところであった。
「…もしもし」
『五右ェ門ッ!?生きてたかお前!』
 ルパンの声が携帯の向こうから響く。
『もしやと思って掛けて良かったぜ、今どこだ?』
「ルパン…」
 五右ェ門は何か目印になるものはないかと辺りを見まわした。
『月虎の連中もお頭を探して走り回ってるぜ、見つかるなよ』
「…奴らならもう通りすぎていった……ルパン」
 意を決して五右ェ門は言った。
「…頼みがある。月虎夕羅も一緒なのだ、奴も一緒に収容してもらえないか?」
 電話の向こうはしばし沈黙し、声を荒げた。
『そんな奴、とっとと月虎の連中に渡しちまえよッ!っていうか、殺れ!』
「…拙者も出来ればそうしたかったのだが…月虎が…」
 そう言って五右ェ門はため息をついた。
「頼む、ルパン。実は拙者が撃たれた時、助けてくれたのは月虎なのだ…。その恩がある。拙者だけ助かるわけにはいかない…」
 必死に懇願する五右ェ門の声に、ルパンは折れた。
『わ〜ったよ…、そういうことなら仕方ねえ。今回だけな』
「…かたじけない」
 ほっとしたようにそう言って、五右ェ門は居場所の目印を伝え、電話を切った。
「川に引きずり込まれて、十分借りは返してると思うけどな…」
 そうぼやきながら電話を切ったルパンは、横で見守る次元に何と言えばいいか頭を悩ませた。

「まもなく、ルパン達が助けに来る」
 そう言って初めて緊張が緩んだように五右ェ門は声を和らげた。
夕羅の方は逆に、眉を寄せて考え込むような表情になった。
「私まで助けるかどうかは疑問だな」
「ルパンはそんな男ではない、約束は守る」
「ルパンは、な。もう一人はどうだろうな…」
 黙ってしまった五右ェ門を見て、夕羅は思わず笑った。
「ま、ルパンの約束とて当てにはならん…私のことは置いて行けばいい」
「そういう訳にはいかないっ」
「決めるのは奴らだ…我々ではない」
 そう言って夕羅は岩に身体を預け、痛みと対峙する事に神経を傾け始めた。強気な態度を続けるのが辛くなってきたようだった。
 五右ェ門も仕方なく黙り込み、岩にもたれて水面へと目を向けた。

 肩に寄り掛かってくる重みを感じて、痛みと闘っていた夕羅は注意を向けた。
 夕羅の体に倒れこむように、五右ェ門の頭が垂れる。
 その状態の不自然さを訝り、傷を負っていない手で五右ェ門の身体に触れた夕羅は顔をしかめた。
 五右ェ門の身体はいつのまにか熱を帯びている。
 出血の為に体温の低くなった夕羅の皮膚でも、推し量れる程の熱さだった。
 もはや意識もない。呼吸は荒く、せわしなく唇から漏れる。
 夕羅はその頭をそっと抱いた。
「そなたまで病人になってどうする…」
 聞こえるはずのない相手に向かって夕羅は言った。何か言わないと自分までだめになってしまいそうだった。
 背後の岩に頭を預け、夕羅は静かに息を吐いた。気を付けないと呼吸さえ傷に響く。
 崖の向こうに空が覗く。白っぽく光る空を鳥が一羽、円を描いて飛んでいた。いつまでも頭上を回り続ける。
「瀕死の獲物でも見つけたか…?」
   皮肉っぽく夕羅は唇を歪めた。
 助けがこなければ、二人揃ってここで野垂れ死にするのは目に見えている。
「…早く来い、ルパン三世…」
 自分に寄り掛かる熱い身体の重みに不安を覚えて、夕羅はつぶやいた。自身の意識も時々遠ざかる。
 背後の崖から足音がしたのは、それからどのくらい経ってからであろうか。
 夕羅と、その肩にもたれる五右ェ門の前に立った二つの影。
 ルパンと次元が、二人を見下ろしていた。
「…遅い」
 夕羅が思わずつぶやくと、ルパンが苦笑いした。
「あんたが言うことかよ」
 そう言って、五右ェ門に近付き身体に触れる。その熱さに思わず眉をひそめた。
「こいつは…っ」
 慌てて振り返ったルパンは、次元の顔を見て言葉を飲み込んだ。
 次元は五右ェ門の方も見ず、ただ夕羅の顔を睨みつけていた。帽子の下で、その瞳は危険な色に揺れる。
 そんな次元に対して夕羅は弱々しく口の端をつりあげ、皮肉な笑みを浮かべた。
「私のことは置いてくなり、殺すなり、好きにしろ…」
「てめえ…ッ!」
 次元は夕羅の衿元を掴んで自分の顔の高さまで引きずり上げた。
 夕羅は何も言わず、次元の顔を見返した。傷は相当痛むはずだがうめき声ひとつ上げない。それでもその顔は蒼白で、次元に揺さぶられる度ますます顔色を失っていく。
「やめなさいって、次元ちゃん。ほんっとーに死んじゃうから」
 五右ェ門を抱え上げて、ルパンが口調とは裏腹に厳しい声で制止した。
「それに今は五右ェ門を運ぶのが先だ」
 その言葉に次元が夕羅の体を離すと、夕羅は力なく地面に崩れ落ち、さすがに微かなうめき声を上げた。
 そんな弱りきった相手に、次元はますます怒りを募らせた。
「ああ、できることならなっ、俺だっててめえが丸腰だろうが、重傷だろうが、関係なくこの場でぶっ殺してやりてえよ。五右ェ門があんなこと言わなきゃなッ!」
 握り締めた拳で、もう片方の手のひらを打つ。その肩はやり場のない怒りに震えていた。
 その中には五右ェ門を危険な目に合わせてしまった自分への腹立ちも含まれていた。
「次元っ」
 既に五右ェ門を抱えて崖を登り始めたルパンが声をかける。次元は忌々しげに舌打ちすると、やや乱暴に夕羅に肩を貸した。
「病院代はあんたにツケさせてもらうからな」
 先に崖を登りながら、夕羅に向かってルパンは肩越しに告げた。その声は次元同様怒りに震えていた。
「好きにしろ」
 既に足を運ぶことすら困難な状態の夕羅はかすれる声で答え、それでも笑みを浮かべることを忘れなかった。






(03.04.21)



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