うたかたの月
第ニ章
3.
月が辺りを照らしていた。脱出するのにふさわしい夜とは思えなかったが、建物に不案内な五右ェ門には闇夜より動きやすいように思われた。
毎日、庭越しに塀を眺め、建物の配置を探ったが、部屋から一歩も出ない状態では情報量はたかが知れる。
もしかして、もう少し夕羅に良い顔をしていれば、多少は違っただろうかなどと今更ながら五右ェ門は思い、そう思った自分に情けなくなった。
寝巻き代わりに与えられていた着物は薄く、夏に入ったとはいえ夜はまだ寒い。取り敢えず、外に出てもおかしくなさそうなものを一番上にして五右ェ門は服装を整えた。
武器もなく、建物の配置もわからず、こんな行き当たりばったりの行動がうまく行くとは自分でも思えない。
それでもこの飼い殺しのような現状を、いつまでも甘受している訳にはいかなかった。
庭に面した障子をそっと押し開いた時。
「その塀を越えるつもりなら止めた方がいい」
背後で声がした。降り返ると、開いた襖の横に夕羅が立っていた。月明かりの眩しさで表情はうかがえない。
「その向こうは堀だ。深いし、電流が流れるぞ」
まだスタートラインも越えないうちからつまずくか、と五右ェ門は皮肉っぽく考えた。
「この屋敷から自力で脱出しようなどと…本気か?配置も知らず、武器も持たず」
ずばり指摘され、五右ェ門は沈黙するしかなかった。しかし夕羅の声に、皮肉や嘲笑はなかった。
「持っていけ」
ふいに夕羅の手から五右ェ門に向かって包みが投げられた。布団の上に落ちたそれを五右ェ門は見やった。
見慣れた衣装とそれに包まれた仕込杖が暗がりの中でもうかがえた。
「そなたにとって、斬鉄剣は命にも等しいと聞いたが…違ったか」
笑みを含んだその言葉は、初めて感情ある言葉に聞こえた。
五右ェ門は夕羅の真意を計りかねて立ち尽くしていたが、用心深く包みに近付き、それを拾い上げた。
懐かしい斬鉄剣の感触を確かめると、自然と顔が緩む。
五右ェ門は急いで自分の着物を着替えた。銃撃で空いた穴は丁寧に繕われ、洗濯されて血の跡も月明かりの下ではほとんどわからない。
その様子を見ながら、夕羅は静かに言葉を継いだ。
「この屋敷を出れば我らは敵だ。次はそなたを切らねばならぬ。それでも行くか」
「助けてもらったことには感謝している…しかし拙者は月虎一族ではないのだ。…これ以上ここには居れまい」
「ルパンの裏切りは見逃そう。だが奴はやり過ぎた…私が何か言った所でもはや収まらぬ。特に妹は、ことルパンに関しては私の言うことなど聞くまい」
「………」
「それに私も、もはや我慢ならぬ。これ以上月虎一族を愚弄することは許さん」
すっと夕羅の瞳が危険な光を帯びた。五右ェ門は危うく剣を構えるところだった。
「そう、ルパンにでも伝えておけ。そなたらの奪った財宝、全て取り戻すまで何度でも闘うとな」
そう言うと夕羅は戸口を離れ、五右ェ門の横を通って縁側へと向かった。
「その庭石の脇の植え込みに隙間があろう。そこを抜ければ塀沿いに門へと続く道がある」
後を追って五右ェ門が庭に下りると、夕羅はすぐさま室内へ戻る為五右ェ門に背を向けた。
「見張りに見つかった時のことまでは知らぬがな…」
「…感謝する」
その背中へと声を掛け、五右ェ門は足早に隙間を通り見えなくなった。
敷居をまたいでから振り返った夕羅は、五右ェ門が消えた先をしばらく見守り続けた。
月がその姿をくっきりと浮かび上がらせていた。
|