うたかたの月

第ニ章

2.
 日が経ち、五右ェ門の弱っていた身体もだいぶ回復し室内を動き回れるようになっていた。
 夕羅は相変わらず、部屋の隅で声を掛けるでもなく、佇んでいる。
五右ェ門が何をしていようと気にする様子はなく、ただ見守るのみだった。時折、持ち込んだ書物に目を通す以外には変わったこともない。
 監視しているつもりなのか、不信に思いながらも五右ェ門は次第にその存在に慣れ気に留めなくなっていった。


   ある日の午後。
 昼寝から目覚めた五右ェ門は、室内にいつもの気配がないことに気付いた。
「…月虎…?」
 無意識に口から出た言葉は、そのまま独白として消えるはずだったが。
 襖の向こうから、遠慮がちな声が間を置いて五右ェ門に答えた。
「…夕羅様はただいま所用でお出かけでございます。御用でしたらこの桐生が承りますが…」
 五右ェ門が驚かぬように気を配った柔らかい男の声だった。声を発してもなお、気配を微塵も感じさせない。
「…いや、特に用はない…」
 自分の言動を恥じ入って五右ェ門はそのことにも気付かず、消え入りそうな声で答えた。
「何かございましたら遠慮なくお申し付けください」
 男はそう言い、再び周囲の空気に溶けこんだ。


「…なるほど」
 留守中変わったことはなかったかと問いた夕羅は、桐生からの報告を聞いて首を軽く傾げ、呟いた。
 男を下がらせ、着替えを済ますといつものように五右ェ門の部屋へと向かった。
 五右ェ門は縁側に座って庭を眺めていた。
 ここ数日、日中はそうしていることがほとんどだった。夕羅が入っていっても身動きすることなく、飽かず眺めている。
 夕羅は五右ェ門の横に腰を下ろした。それほど近くに来ることは今までにないことで、初めて五右ェ門は夕羅の顔を見た。
「面白いか?この庭は」
 夕羅から庭へと一瞬目を移した五右ェ門だったが、結局何も答えずまた夕羅の方を向いた。
「日本庭園など、どれも同じにしか見えぬ。だが良く見れば何がしかの変化はある。それがわかれば面白い」
 夕羅の方は、庭を向いたまま気にする様子もなく言葉を継いだ。
「それとも、そなたはこの塀の向こうのことを考えていたか」
 そう言って夕羅は五右ェ門を見、唇の端で笑った。
 まだ青白い五右ェ門の顔が僅かにこわばった。その頬に夕羅が腕を伸ばす。避けようとした五右ェ門の顎に手をかけ、多少強引に引き寄せた。
 唇が重なり、夕羅の舌が五右ェ門の歯の間を割って入ろうと探る。
力で抵抗できない五右ェ門は、懸命に首を振り夕羅の唇を拒んだ。それでも尚、執拗に求める夕羅から逃れようとした五右ェ門は、思わず夕羅の唇を噛んだ。
「…ッ!!」
 夕羅の腕が五右ェ門を突き放す。その下唇が赤く滲んでいた。五右ェ門の口の中にも、夕羅の血の味が広がる。自分のしたことの結果に五右ェ門の顔に狼狽が広がった。
「ちっ…味なマネを…」
 思わぬ抵抗に、かっとなった夕羅は五右ェ門の身体を壁に叩きつけた。右肩からぶつかった五右ェ門はその痛みに息を呑んだ。
 そのまま五右ェ門を縁側に押し付ける。片手で五右ェ門を押さえつけ、着物を脱がしにかかった。血の滲む唇を首筋に這わせ、赤い跡を残していく。
 五右ェ門が微かに苦痛の声を漏らした。
 見下ろした夕羅は、彼の顔が蒼白になっていることに気付いた。もはや夕羅に抵抗する力もなく、唇を噛み悲鳴を押し殺している。
 肩を押さえつけた夕羅の指が、五右ェ門の傷口に食いこんでいた。慌てて手を離すと、その衝撃にまた口の間から声が漏れた。
 開いた傷口が、圧迫から開放されて血を吐き出す。
 はだけた着物の下に見える包帯がみるみるうちに血に染まった。さすがの夕羅も顔色を失って、五右ェ門を助け起こそうとした。
「…さわるなッ!」
 悲鳴にも似た声で五右ェ門は夕羅を制止した。痛みに震えながら全身で夕羅を拒む。涙に濡れた瞳が強い光を放った。
「医者を…」
「出ていけッ…独りに、してくれ…」
 しばらくは動かなかった夕羅だったが、五右ェ門の決意が固いのを悟ると黙って立ち上がり、部屋から出ていった。
 残された五右ェ門は縁側に倒れたまま、苦痛に喘いでいた。
 痛みに零れたはずの涙が、いつまでも頬を伝って止まらない。理由のわからぬまま、五右ェ門は声を殺して泣き続け、日が落ちるまでその場に倒れ込んでいた。


 夜、いつものように食事が運ばれてから、夕羅は五右ェ門の部屋に姿を見せた。
 五右ェ門は布団の上に置き上がり、じっと上掛けの角に視線を注いでいた。夕羅が入ってきても、ぴくりとも動かない。
 傷口はすでに治療が施され、包帯も新しく巻き直されている。
 夕羅はそんな五右ェ門の様子を見たが、いつものように彼の横に膝をついた。いつもよりはゆっくりと、五右ェ門の前から箸を取り上げ、食事を口元に持っていった。
 五右ェ門は前を向いたまま、口を開こうとはしなかった。夕羅の方を見ることもしない。その唇は白くなるほど噛み締められていた。
 夕羅の持つ箸の先が微かに揺れた。
 五右ェ門の態度に、夕羅の顔が険しくなる。額に流れる髪の影で眉が一層つりあがった。
 夕羅の怒りの気配にも、五右ェ門はうつむいたままで更に強く唇を噛んだ。左手で布団の端を握り締める。
 夕羅の唇が震える。ぎりぎりと奥歯を噛んで夕羅はなんとか自分を押さえ込んだ。
「…悪、…かった」
 やっとのことで夕羅は声を絞り出した。声の調子に一欠けらも詫びの感情は伺えないが、夕羅にしては上出来と言えた。詫びる言葉を知っていたというだけでも驚くべきことだろう。
「大人気ないことをした…すまない…」
「…よこせ」
 そう言って五右ェ門は夕羅に手を差し出した。
「もう自分で出来る」
 夕羅の手から箸を取り上げ、五右ェ門は膳に向かった。
 傷口が開いているためか、かなり危なっかしいが、右手を使って自分で食事を口に運ぶ。既に右手が使えることを知っていた動きだった。
 夕羅は蹴るように席を立ち、荒々しい足音をたてて出ていった。
 乱暴に開けられたままとなった襖を見やって、五右ェ門は悲しげに目を伏せた。
 そしてそれ以来、夕羅が五右ェ門の部屋に姿を見せることはなかったのである。





読み返すたびにぎゃーなにこれ自分何書いちゃってるの!?となるのがこの章です。でも一番好きかもしれない。やだやだ。
(03.04.21/06.10.27改訂)



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