うたかたの月
第ニ章
1.
「くうッ…」
ともすれば崩れ落ちそうになる足を、必死に励まして五右ェ門は歩を進めていた。肩口からぽたぽたと落ちる血が後ろに続く。
岩だらけの荒野は、敵から隠れるには適していたが傷付いた身を抱えて歩くのは困難を極めた。
血と一緒に、額からは気持ちの悪い汗が流れ落ちる。
不覚だった。
一対一であればどんな相手だろうと切り抜けられる自信がある。数人に囲まれたとしても、意味のある動きをする限り防ぐすべはある。
だが戦場の流れ弾をよけるのは容易ではない。
どんなに優れた戦士とて、戦場では一兵卒も同じだ。
否、どんな人間だろうと戦争で生き残れるのは運でしかない。
月虎一族との闘いは激烈を極めていた。
とある武家屋敷から協力して互いの目当ての宝を頂戴しようという当初の目的は、ルパンの裏切りによって崩れ去った。その裏切りについては、夕羅は不問に付すつもりだったようなのだが。
その後、ルパンがその武家屋敷の財宝を全て持ち去ったのがいけなかった。月虎一族の所望する幻の掛け軸がそこに含まれていたのである。
『今更これだけ返したところで許してくれそうにないやねえ』とルパンはぼやき、月虎一族との全面戦争となったのである。
ルパンと次元を求めて五右ェ門は歩いていた。通信機は撃たれた時の衝撃で破壊されたか、地形のせいで通信が妨害されているのか、まったく役に立たない。
がくっと片足が折れた。立ち上がろうと腕を伸ばしてあがいたが、もはやその力は残っていなかった。岩にもたれかかる様に崩れ落ちて、五右ェ門は目を閉じた。痛みだけが全身を支配する。その痛みから逃れるように意識が遠のいていく。
どれだけ経ったろうか。
五右ェ門は微かな足音を聞いた。敵かもしれない。だがもはや指一本動かなかった。
足音が止まり、五右ェ門の上に人影が被さる。懸命に五右ェ門は目を開いた。視力すら失われたらしく、視界は霞み、靄がかかる。
「じ、げん…?」
確信があったわけではない。
そうであったらという期待を五右ェ門は口にした。
相手は何も答えず、五右ェ門の体を抱き上げた。熱に乾いた唇が柔らかく塞がれる。
次元とは違う。
さらっと頬に相手の髪が触れた。遠い記憶にあるその香り。
視点の定まらない五右ェ門の瞳が開かれる。
「…!月虎…、ゆ…」
そのまま、五右ェ門は夕羅の腕の中で意識を失った。
数日間五右ェ門は痛みと熱に朦朧とした状態で時を過ごした。自分がどこにいるのかもわからない状態だった。
初めてはっきりと目を覚ました時、五右ェ門は自分が見覚えのない和室に寝かされていることを知った。広い部屋の中程に敷かれた布団に五右ェ門は横たわっていた。
「目を覚ましたか」
部屋の隅から聞こえた、聞き覚えのある声に五右ェ門は体を起こし、傷口に響く痛みに身をよじらせた。涙を浮かべながらも、声の主を睨み付けることは忘れなかった。
殺意さえ漂う五右ェ門の視線を、夕羅は平然と受けとめた。
「一時はどうなるかと思ったが、さすがに回復が早いようだ」
「………」
「まあしばらくは動かぬ方が身の為よ」
言い置いて夕羅は立ち上がり、部屋から出ていった。
残された五右ェ門は傷の痛みに横になることも叶わず、起きあがったまま室内を見渡した。
部屋の南側は外に面しているらしく、閉ざされた障子を透して光が揺れる。夕羅が出ていった反対側の襖の先は廊下だった。
室内は静かで、その周りにも人の気配が感じられない。
それでも、簡単には脱出できそうにない雰囲気を五右ェ門は感じ取っていた。
微かにため息をつき、五右ェ門は布団にくるまった。
どうせこの傷では、当分おとなしくしてるほかはない。
五右ェ門が意識を取り戻したことが伝えられ、医者が呼ばれた。診察を受けながら、五右ェ門はこの数日同じように手当てされていたことをおぼろげながら思い出した。
熱に浮かされてつまらない事を口走らなかったか、懸命に記憶を辿っていた五右ェ門は、ふいにびくりと身体をこわばらせ、医者を狼狽させた。
記憶の視界の片隅に、いつもちらついていた人影を五右ェ門は思い出したのだった。
この部屋に運び込まれてからいつも、いつもその影は五右ェ門の傍にいた。意識を取り戻す度、目にした姿。そして今も。
今も、その男は部屋の隅で彼の様子を見守っていた。床に届いた黒髪をさらりと流し、脇息に寄り掛かる姿は寛いでいる様にも見える。
医者の肩越しに、五右ェ門は夕羅を睨んだ。きつく結んだ唇が微かに震える。
夕羅は表情を変えずに五右ェ門の瞳を見つめ返していた。
「今日からは普通に食事をなさって結構です」
診察を終えるとそう言い置いて、医者は帰っていった。
食事が運ばれても夕羅は出ていく気配すら見せず、自分の膳も同じく運ばせた。
右肩に傷を負った五右ェ門は、膳を前に動こうとしない。食事を運んできた女性が口元まで匙を持っていき食べさせようとするが、五右ェ門は口を開こうとはしなかった。
匙を手に戸惑っている彼女の後ろから、それまで成り行きを見守っていた夕羅が声を掛けた。
「毒でも入っていないか、疑っているのか?相変わらず可愛げのない男だ。私に貸せ」
最後の言葉を女性に向かって言うと、夕羅は立ち上がり五右ェ門の枕元に寄った。五右ェ門は一瞬拒絶の表情を浮かべたが、何も言わずに表情を消し、夕羅から視線を外した。
「後はよい」
女性を下がらせ、夕羅は粥の入った椀を手にした。
「私が先に食べれば信用できるか」
そういうと夕羅は一口粥を口にした。そうしてから五右ェ門の口元に匙を運ぶ。
夕羅の行動を横目に見ていた五右ェ門は、匙に目を移したものの微かに眉を寄せたまま動こうとはしない。
「少し熱いかもしれんな」
そう言って夕羅は匙を自分の口元に戻して息を吹き掛けた。改めて五右ェ門の口へと運ぶ。
しばらくためらった末、五右ェ門はそれを口にした。
夕羅の表情が僅かに緩む。
その後、全ての器の料理を夕羅は先に口を付けて見せ、五右ェ門は黙って夕羅の介添えを受け入れたのだった。