うたかたの月
第一章
3.
その日は珍しくルパンがアジトに居た。次元からは、数日中にそっちへ向かうと連絡がきていた。仕事に取り掛かる日も近い。
ルパンは朝からなぜだか、アジトを行き来する五右ェ門を仔細ありげに目で追っていた。
「なあ、五右ェ門」
いつになく歯切れの悪い口調でルパンは五右ェ門を呼んだ。
「ん?なんだルパン」
その含みに気付かず、屈託なく五右ェ門は返答した。
「ちょっとここ座ってくんない?」
「?ああ」
食卓の椅子に、行儀悪く後ろ向きに腰を下ろしたルパンと向かい合う形で五右ェ門は腰掛けた。
「なにか話か」
「おう…」
妙にためらいを見せるルパンの態度に、さすがに五右ェ門も気付いて眉を寄せた。
「どうした、次元に何かあったか」
「いや、次元はあれ以来連絡ねえよ」
最初に次元を思い浮かべる辺り心配ないか、とルパンは思ったが…
「五右ェ門さ〜、最近月虎夕羅と逢ってるよな」
すうっと五右ェ門の顔色が変わった。
「何でそれを…」
思わず口走ってしまい、そのことに狼狽してますますうろたえた表情になる。
別にやましいことは何もなかったし、ルパンにわざわざ言うこともないと思っていたことで、しかし改めて指摘されるとなんとなく後ろめたい。
紫陽花の寺へ行って以来、五右ェ門は何度となく夕羅に誘われるまま方々へ出かけていた。もう夕羅には逢うまい、と行く度に思うのだが、『待ってる』と言われるとそのまま無視することも出来ないのが五右ェ門だった。
はっと気付いたように五右ェ門が小さく叫び声をあげた。
「おぬし、まさかつけて……っ」
いくらルパンといえどもこの小さな寂れた町でそうそうデートの予定があるはずもなく、それに気付かなかった五右ェ門は、うかつといえばうかつだった。
「いや、別に五右ェ門が何しよーがかまわないんだ、けど」
つけていたかどうかについてはまったく触れずにルパンは話を続けた。
「月虎は今回仲間な訳だし…仲良くするに越したことはないんだ、本当はな」
すっとルパンの目つきが変わる。その雰囲気に、五右ェ門もなんとなく座り直した。
「だけど…ワリい。俺、あの男とは組めねえ」
真面目な口調になってルパンは告げた。
「あんなことがあって、それでもまだ俺らと組もうってのはどう考えてもおかしい…、なんか裏があるに違いない。それに月虎一族は目的のためなら手段を選ばねえやつらだ、そんな連中と組んでこっちに利益があるとは思えない」
ふいに、にやりとルパンは口の端で笑った。
「だったら、その前にこっちが出しぬいてやろーじゃないの、ってこと」
ルパンは仲間の裏切りは絶対に許さない。だが自分が組むふりをして出し抜くことに関してはあまり抵抗がないのだった。柔軟と言えば柔軟。悪賢いと言えば悪賢い。だがこの世界、その姿勢でなければ渡ってこれないことは、五右ェ門も十分に承知している。
「だけどそうなると五右ェ門ちゃんの身が心配で…」
「もうあの男とは会わぬ」
きっぱりと、むしろ自分に言い聞かせるように、五右ェ門はルパンに告げた。
「別に会いたくて会っていたわけではないのだし、会う理由もない。仕事に不利になるようなことは避けた方が無難だからな」
「お、おう。悪いな…」
その気迫に圧されてルパンは思わず口篭ったが。
「ところでさ、今日はメシ、久しぶりに外で食わねえ?」
笑顔でルパンは話題を変え、その話はそれきりとなった。
ガラス窓につたう水滴を五右ェ門はじっと見ていた。車の速度にあわせて後ろへと飛んでいく。窓は目隠しがされ、外から中の様子をうかがうことは不可能だった。車内は静かで、ほとんど振動を感じない。
「少し遠くて不便な場所でな。だが車ならすぐ着く」
声に振り向いた五右ェ門に夕羅は微笑みかけた。五右ェ門は視線をそらし、雨粒を執拗に目で追っていた。
ルパンに話を切り出される前からの夕羅の誘いを、結局五右ェ門は断ることができなかった。夕羅へ連絡する術を持たなかったこともある。
すっぽかそうかとも思ったのだが、五右ェ門にはそれができるはずもなかった。
車はしばらく山沿いの道を登り、林の中の細い道へ入るとすべるように一軒の家の前に止まった。
ひっそりと木々に隠れるようにして建つその屋敷は、山を拓いて造られたようだが、入口から見た限りではその規模は窺い知れない。
中に入ると母屋を抜け、渡り廊下を渡り、さらに庭に下りて離れの一室に通された。
狭くもなく、広すぎもせずといった感じの和室は、余分な装飾もなく居心地の良い空間を作っていた。床の間に飾られた掛け軸と壷が唯一の装飾品であり、室内の品格を高めている。
夕羅と斜めに向き合う場所に五右ェ門は腰を下ろした。すぐに料理が運ばれてくる。夕羅に酒を勧められ、しばらくは二人で食事に専念していたが、五右ェ門はどうしても箸が滞り気味になる。
夕羅は五右ェ門の様子に気付いて面白そうに尋ねた。
「なにか、私に言いたいことがあるようだな」
一瞬ぴくっと箸の先が震えた五右ェ門だったが、夕羅の顔を見直し、意を決して告げた。
「このようにして会うのは、もうこれきりにしたいのだが」
「ほう」
特に驚いた様子もなく相槌を打ち、夕羅は手にした酒盃を飲み干して言葉を継いだ。
「ルパンが我らを裏切ることに決めたからか」
さらっと言ってのけた夕羅に対して、五右ェ門はルパンに夕羅と逢っていることを指摘された時以上に動揺する羽目となった。夕羅はそんな五右ェ門の様子を楽しむように見つめている。
「な、なぜ…そんなことを…」
唇を舐め冷静を装おうとするが、その口から出た言葉は動揺をかくせない。
「あの男の小細工など…」
夕羅の顔に笑みが浮かんだ。くすくすという笑い声が漏れる。
「まこと猿だな、あやつは」
軽蔑しきったように吐き出された言葉だったが、押さえた声のせいか不思議と五右ェ門は腹が立たなかった。
「ここはとても小さな町だ。その程度のことはすぐに知れる。ましてや、この町は我ら月虎一族の本拠地のひとつだ…。それを知ってか知らずか、ルパンはずいぶんこの町の女たちと派手に遊んでいるようだがな」
「…あの馬鹿……」
思わず五右ェ門は毒づいた。夕羅は聞こえなかったかのように、ただ酒器に手を伸ばした。
「そなたがそうしたいのなら私は別にかまわぬよ、五右ェ門」
そう言いながら五右ェ門と自分の盃に酒を注ぐ。
「それならばそれで、今宵は別れの夜を楽しもうではないか」
顔を縁取る黒髪の下で、夕羅は再び妖艶に微笑んだ。
その後幾つ杯を重ねたか知れない。
外の様子は襖に遮られてわからないが、もう随分と時が経っているように思える。これ以上長居しても意味はない。
常と違い別れを切り出さない夕羅の様子に焦れ、五右ェ門は意を決して声を掛けた。
「拙者はそろそろ帰らせてもらう」
その言葉に振り向いた夕羅はしばらく五右ェ門の顔を眺めてからようやく口を開いた。
「では送らせるとしよう」
「…結構。自分で帰れる」
夕羅の視線に耐切れず瞳を逸らしながらも、五右ェ門はきっぱりとした口調で告げた。
「ほう」
口の端で笑むと夕羅は手にしていた酒盃を置いた。
「その状態で一人で帰れるのか?」
言いながらその手を五右ェ門へと伸ばす。
「随分と酔っているようだが」
夕羅の体が傾き、ふわり、と香の如き匂いが五右ェ門の嗅覚をくすぐった。髪からなのか着物からなのかわからないまま五右ェ門の思考を鈍らせる。
だが指先が頬を滑りかけた刹那、五右ェ門ははっとして身をよじりそのまま立ち上がった。
「ごめん」
そう言い残すと五右ェ門は部屋を飛び出した。
廊下を行きながら、いつもとは逆だとふと思う。がそれよりも真っ直ぐ歩き続けることに意識を傾けなければならなかった。
やはりかなり飲んだのだ。
曲がり角で壁に手を付き呼吸を整える。
「…もうあの男とは会わぬ…」
ルパンに言った言葉を、再び自分に言い聞かせるように呟いた。
別れ際に嗅いだ香りがまだ自分の周りを漂っている気がして、五右ェ門は首を振り手で辺りを払った。
勢いよく閉められた襖に首を竦め、夕羅は一人残された部屋で笑う。
しばし遠ざかる足音に耳をすませ、夕羅は無意識に酒器を手に取っていた。更に杯に手を伸ばしかけて止まる。
飲み続ける意味を見失ったのだ。
壁に寄りかかって息を吐いた。酒器を手にしたままの指を唇に押し当てる。注ぎ口から上る酒の匂いはもはや、自分の呼気とも部屋に漂う大気とも変わりはしない。
静かな声で呟いた。
「…酔っているのは私の方か…」
持っていた酒器を卓の上で傾けた。ほんの少し残っていた液体が滑らかに零れでて黒光りする卓上に音もなく広がる。
その海をしばらく夕羅はぼんやりと眺めていた。