うたかたの月
第一章
2.
「紫陽花を見に行かぬか?」
電話を取った途端、相手はそう告げた。
「?………ッ」
受話器を握ったまま一瞬訳がわからず沈黙した五右ェ門だったが、その声の主に思い当たると唇を噛んだ。
あいかわらず雨のやまない日の午後。五右ェ門はアジトの窓から外を眺めてぼんやりとしていた。
次元は昔の友達からのSOSとかで仕事間近にならないと合流できないと言う。それっきり連絡もなく時々不安にならないこともなかったが、五右ェ門は次元のいない日々をそれなりに過ごしていた。
ルパンはといえば、この静かな町が落ち着かないらしく何かと理由をつけては出かけていく。仕事の打ち合わせと称して2、3日帰ってこないことはざらだった。今日も朝から行方不明だ。
午前中は稽古やら、主にルパンの散らかした室内を片付けたりと、それなりに忙しく過ごしたが、午後になるとすることもなく五右ェ門はいつになったら雨は止むのだろうかなど思いながら外を眺めていた。
そこへ掛かってきた一本の電話。
五右ェ門の返答がないのを気にする様子もなく、言葉を継ぐ。
「先日の傘の礼だ」
夕羅の声は低く、官能的に響いて五右ェ門を落ち着かない気分にさせる。
「まだ時期ではないのだが、早咲きの紫陽花が見頃の場所があってな。あまり知られていないので静かで良いぞ」
まるで五右ェ門が拒絶することを想像もしていない、自信に満ちた口調で話を続ける。
「……なぜこの電話番号を……?」
五右ェ門はそう言うのがやっとだった。しばしの沈黙の後、静かな笑い声が電話口から聞こえた。
「明日は空いているか?それほど遠くではない。雨もあがるそうだ」
五右ェ門の問いにはまったく答えず夕羅は話を続けた。場所と時間を告げ、五右ェ門に反論する間も与えずに彼は電話を切った。
次の日雨は確かに止んでいたが、雲は低く垂れこめたままだった。見上げると今にも水滴が落ちてきそうな空模様で、五右ェ門は傘を手に外へ出た。
案の定歩き出してすぐに雨がぱらぱらと落ちてきた。
「今日もやはり雨か...」
つぶやいて五右ェ門は傘をさした。夕羅の言っていた場所まではそう遠くはない。
月虎夕羅は来るのだろうか。
昨日からずっと五右ェ門は考えていた。俺はあの男にからかわれているのかもしれない。
そう思いながらなぜか彼は今こうして待ち合わせの場所へと向かっているのだった。
――待っている。
最後にそう言って男は電話を切った。
夕羅が待ち合わせ場所に指定したのは先日の用水路沿いにある公園だっ
た。水路から少し高台となった場所に小さな空き地がひらけており、周囲は低い植え込みと鉄柵にかこまれている。見晴らしはいいが土地が狭く、遊具などもないためめったに人は訪れなかった。
公園への階段を上った五右ェ門はそこに既に夕羅が立っているのを認めた。
今日の夕羅も袴姿だが、先日よりもくだけた印象を受ける。それでも整った装いであることは確かで、五右ェ門は自分が普段着のままであることに僅かに気後れを感じた。
夕羅は公園の隅に設けられた藤棚の下に立って五右ェ門の方を見ていた。既に盛りは過ぎ、花はほとんど落ちてくすんだ色をした花房の残骸が所々ぶら下がっているだけだった。
藤棚の隙間から雨が落ちていたが、夕羅は気にする様子もなくたたずんでいた。
「雨が降ってきてしまったな、残念だ」
そう言って夕羅は微かに笑った。
「しかし雨に濡れる紫陽花も美しかろう」
「…おぬしは傘を持たぬ主義か?箸より重いものは持たぬと言うのでもあるまい」
傘を差しかけながら五右ェ門は問うた。夕羅は枯れかかった藤の花を見上げながら、くく、と声を出して笑った。
「その例えはそなたの方が似合っていると思うが…まあよい、行くとしよう。少し歩くぞ」
山のふもとに位置するその寺は門こそ小さいものの奥は広く、本堂は山の中腹に位置すると思われた。一般人には入りにくい雰囲気のその門を夕羅はためらうことなくくぐり、五右ェ門を小さなあずまやを備えた庭へと導いた。
良く手入れされたその庭は、紫陽花のための庭であるようだった。早咲きのものが庭のあちこちに品良く咲いている。その配置の妙に思わず五右ェ門も見とれ、夕羅に賛辞を述べたほどの見事さだった。
しばしそこで時を過ごし、夕羅の顔見知りらしい寺の住職の処で茶をいただくと五右ェ門は暇乞いをした。拍子抜けするくらいにあっさりと夕羅は承諾し、寺の門のところで
「それではいずれまた」
と告げ、雨の中をすたすたと去っていった。
残された五右ェ門は雨の中夕羅の後ろ姿を見送りながら、もう逢うこともあるまい、と思っていたのだった。
だが数日後。
一人留守番をしていた五右ェ門のところにかかってきた電話。
「美味い魚を出す店があるのだ」
当たり前のように夕羅は前置きなしに言った。
「紫陽花見物に付き合って貰った礼に、どうだろうか」
「…………ッ」
何の含みもない夕羅の声に五右ェ門は戸惑いを隠せない。この男は一体何がしたいのか。
「待っている」
最後にそう言って、夕羅は電話を切った。
翌日も雨。
その中を淡々と傘を差し街へと出かける五右ェ門の姿があった。