蜘蛛の巣の迷宮
序章
天井から降ってきた影はそのまま、ルパンの前に立つ男に向かって光を旋回させた。
誰の目にも止まらぬほどのその剣を男は受け止めた。光を乱反射させ、折れた刀が飛ぶ。
「ほう…石川の…」
折られた刀を手に、その男は呟いた。空から舞い降りた影を見つめて。
二人の視線が交差する。
そして五右ェ門はその瞳に縛られる。
目の前の男の、一つしかない瞳が五右ェ門の過去を引きずり出し、絡め取る。
――まるで蜘蛛の巣の糸のように。
『古天明平蜘蛛』。
その茶器を奪う為にルパン達はこの屋敷で行われる茶会に紛れ込んでいた。
そこは月虎一族傘下の屋敷。
ルパンの最後のトリックを月虎夕羅に見破られ、五右ェ門は夕羅と対峙する破目になった。
それがルパン一家の切り札としての役目だから。
そうでなければ、夕羅と顔を合わさずに済んだだろうか?
だがそれについて考えるよりも今はルパンと二人、屋敷から逃げ出すことが五右ェ門にとっては先決だった。
出口へと導くはずだった不二子とはぐれ、二人は邸内を彷徨っていた。
追っ手の数も多すぎる。
一時二手に分かれることにして、ルパンと五右ェ門はそれぞれの方向へと走り去った。
幾度か剣を振るい、追っ手を撒いた五右ェ門は人気のない建物の裏へと入り込んだ。角を曲がったところで行く手に立つ人影を見、刀を構えようとして五右ェ門はそのまま凍りついた。
視線の先には、先程剣を交えた男が立っていた。
「久しぶりだな」
月虎夕羅。それがこの月虎一族を束ねる長の名。
供もなく、刀も持ってはいない。なのに五右ェ門は動けず、立ち尽くす。
夕羅は五右ェ門に向かって歩を進める。自信に溢れた足取りで。
目の前に立ち、五右ェ門を見つめる。
「元気だったか? 私の、大事な…」
終いまで言わずに、夕羅は五右ェ門に手を伸ばした。瞳を細め薄く笑みを浮かべながら。
まるで金縛りにあったかのように、五右ェ門は動けない。斬鉄剣を握りしめた指が震える。
…逃げられない…
息が出来なくなる。この男の前に出ると、かつての無力な少年に戻ってしまう。
夕羅の指が五右ェ門の唇を滑った。
避けようとしても体は動かず、五右ェ門はかすかに震える唇に冷たい夕羅の指先を感じていた。
「たまには顔を見せてもよかろうに…薄情な男だ…」
夕羅の顔から目を離せない五右ェ門の揺れる瞳を見据え、夕羅は冷え冷えとするような笑みをたたえる。五右ェ門の背中を冷たいものが下りていった。
しばらくそのまま指を止めていたが、不意に離すと夕羅は去っていった。
「また、会おう…」
そう言い残して。
後に残された五右ェ門は夕羅の姿が建物を曲がって消えるとようやく、呪縛からとかれたように身体を震わせ、息を吐いた。
まだ震えの残る指先で、五右ェ門は無意識に自分の唇に触れた。
夕羅の指が触れた跡が氷を押し当てたように冷たく、だが火傷をしたようにも熱く、ドクドクと脈打つ。
追っ手の声が間近に迫るまで、五右ェ門はその姿勢のまま立ち尽くしていた。
「ふっ…なかなか面白い野点であった」
車の中で夕羅は屋敷を見やって呟いた。
茶会を潰され、茶器を奪われたことは痛い。今回の件の責任で部下を一人失うことにもなろう。
だが。
あのルパンとかいう男、まったくことごとく人の邪魔をしてくれる。そう思うとなぜか可笑しいのだ。
退屈さは人の感覚を麻痺させるのか。
そしてそのルパンの仲間という、若い剣士。彼との再会が一層夕羅を上機嫌にさせていた。
「出せ」
運転席に向かって告げ、夕羅はシートに倒れ込む。
五右ェ門に触れた指先を夕羅はいとおしげに眺めた。薄い唇の温かさと微かに触れた吐息の感触を思い出す。
その指を夕羅は自分の口に持っていった。唇に押し当てる。
瞳を閉じ、夕羅はひっそりと笑った。
…また、会えたな。
屋敷から逃走する車の中、五右ェ門は一人震える身体を抑えることが出来なかった。
自分を見つめた強い瞳。あの瞳に囚われていた幼い自分。
「……ッ」
思わず悲鳴をあげそうになって、五右ェ門は唇を押さえた。その唇も先程夕羅に触れられたばかり。刻印を打たれたように痛みを覚える。
ここから熱は広がっていき、いつか全身を蝕むのだ。もう逃れられない。
…縛られる。
もう自分の方が剣の腕も上なはずなのに、あの男の前では全てが無意味だ。
身に付けた強さも技も何の助けにはなってくれない。この歳月は全てが虚構だったかのようだ。
一度目は、逃げ出せた。
二度目はもう、逃げられない…。
改めて五右ェ門の身体に戦慄が走る。
…また、始まるのか…?
心の奥底に沈んでいた遠い過去の記憶が鮮明な色を保って甦り、夕羅と五右ェ門を再び絡めとろうとしていた。