蜘蛛の巣の迷宮
6.
「…あ、兄者は私をお疑いか…!?」
端整な妹の顔がみるみる引きつっていくのを夕羅は冷ややかな瞳で見据えていた。
明るい室内で向かい合った兄妹の表情は著しく対照的であった。まさしく静と動。
開け放たれた窓から入り込む空気は既に秋の気配を漂わせている。
少年がこの屋敷に来てから半年あまりの月日が過ぎていた。
奥まった夕羅の私室は周囲を整えられた庭園に囲まれていた。日本庭園のお手本と賞されること間違いなしのその空間は、遠くの生垣まで視界を遮るものは何もない。
室内は二人の兄妹と、速水のみ。それ以外に周囲には人影も気配もなく、夕羅は開放的なその空間で声を潜めるつもりはないようだった。いつもの調子で言葉を紡ぐ。
「さて、私はお前がそんなことをするはずはないと思っているが…威音」
そこまで言ってわざとらしく夕羅は言葉を切った。しばし間を置い
て続ける。
「そういう噂があるのだ。お前が彼らと通じて私を退けるつもりでいると」
「そんな…こと……」
「何もなければ噂は立たぬ」
「……ッ」
ゆったりと降りてくる言葉に責める調子は一欠けらもない。だが威音には一言一言が突き刺さるようだった。膝の上に置かれた手は硬く握り締められ、先程から震えている。
「お前の身に覚えがないのならそれでいい、が…」
またしても夕羅はわざとらしく言葉を止める。びくりと威音の体が震えた。
「それならそれで、何か思い当たる節でもないかと思ってな」
「思い当たることなど、な、何も…」
ただ闘うことのみに喜びを見出す威音に、兄と対等な問答など出来るはずもなかった。それでも自身の疑いを晴らすには言葉を操るしかない。
「何かの間違いだ!私が兄者に楯突こうなど、兄者に翻意を持つなど…」
懸命に訴える。
「…あるはずないではないか…ッ。信じてくれ兄者…!」
怖いもの知らずの威音も兄に見捨てられてはなすすべがない。
兄あってこその自由。
全ての面倒事を引き受けてくれる兄が居てこそ好き勝手出来るのだから。
「敬愛する兄上に逆らってまで手に入れたいものなどない…どうか…」
夕羅は威音の訴えを黙って聞き続けていた。
威音の反逆など本気で信じているわけではない。ただ余計なことをせぬよう、多少釘をさす必要があると思っただけだ。
夕羅は歳の離れ過ぎている妹たちにかなり甘いつもりだった。まだ十代の二人にそれぞれ部隊を与えてやってもいる。
二人共に政治的なことに疎く、戦闘好きと来ていた。
自分の陰謀に対してまったく力にならないが、戦力としては役に立とう。
無能であっても無能なりに働いてもらわねばならない。
期待はしていない。だが邪魔をされたくはない。
実を言えば、威音の反逆が本当であったほうが都合が良かった位だ。
泣かんばかりに同じ内容を繰り返す威音の言葉をたっぷり聞き流した後、ようやく夕羅は口を開いた。
「…よくわかった」
威音が息を詰める。ごくりと喉が鳴った。
「お前に翻意のないこと、お前の口から直接確かめたかったのだ。疑って悪かった」
威音の口から息が漏れた。だがまだ完全には緊張を解くことが出来ず兄の顔を窺っている。
夕羅の唇の端が僅かに上がり、少しだけ今までとは違う優しい声になって問いかけた。
「ではこれからも私の為に働いてくれるな?威音」
「兄者のお役に立てるのならどんなことでも…ッ!」
間髪入れずに威音が答える。
「期待している」
気のない口調で吐き打された夕羅の言葉。だがその言葉に威音は初めて表情を明るくした。
「…はい、兄者」
その返答を聞くと夕羅は軽く手を振って立ち去るよう促した。 威音は自分が動くことすら兄の気に触るのではないかと恐れるようにそろそろと立ち上がる。
それでも立ち去る前に瞳を巡らし、当然のように兄の横に居る男を意味ありげに一瞥することだけは忘れなかった。
「大猛殿には釘を刺さなくてもよろしいので?」
威音が廊下を去る足音が聞こえなくなった頃、速水が初めて口を開いた。
「…あれは放っておけ」
速水の言葉に、夕羅は苦笑混じりに言葉を漏らした。
「やつらも利用しようとは思うまい」
威音を上回る戦好きで、女好きの弟。あれを御せたら大した者だ。
夕羅はつと立ち上がって縁側に立った。まだ午後も早いというのに既に陽射しは夕暮れの匂いを纏っている。明るい陽光も鮮やかな緑も夏とは違う。
威音の噂はもう何ヶ月も前から囁かれていた。知っていて夕羅も放置していたのだ。
そしてその間威音が何かをした形跡はひとつもない。
あの様子では噂すら知らなかったのだろう。
「何ヶ月も前から流れている噂に関して今更聞かれることがおかしいと思わない時点で既に愚かだ」
その言葉は独り言のように、しかし声が潜められることなく吐き出された。切り捨てる口調だった。
「まあ噂が僅かでも本当だったとしても今後威音には何も出来まい」
風が夕羅の髪を軽く揺らした。
速水の瞳が一瞬、それを捕らえて細められた。その箇所から目を離さないまま夕羅に問う。
「しかし彼らがまず御兄弟を味方にと考えるのは当然でしょう。その点では噂は真実と」
「考える、のはな」
淡々と夕羅は答えた。
「考えるのは簡単だが…引き込むのは容易ではあるまい」
速水を振り返り、意味ありげな顔になる。
「なにせ相手は自分たちに何が期待されてるかも理解できないような馬鹿どもだぞ?」
そして苦笑し、付け加えた。
「傀儡としては確かに好都合だろうな」
「わざとそのように育てられたのではございませんか」
「何」
険しい声と共に向けられた夕羅の顔に言葉ほどの険しさはなく、しかもその目は面白そうに光っていた。その瞳を受けて速水も涼しい顔で言葉を継ぐ。
「夕羅様ほど頭が切れたらどんな野望を持つやも知れませぬゆえ」
「…面白い意見だ」
女好き弟と戦好きの妹。
稚児狂いの兄。
周囲にはさぞかし愚鈍な三兄弟と映っていることだろう。
そうでなければこの半年に意味はない。
「愚かな弟妹ならば兄も愚か、と…そう信じてくれれば良いのだが」
口の中で呟き、夕羅は踵を返した。部屋を横切り戸口へと向かう。
「どちらへ」
速水の問いかけに夕羅は襖へ手をかけたまま振り返り、わざとらしく笑い声を上げた。自嘲とも取れる笑いと共に答えを返す。
「愚かな兄が行く場所に決まっている」
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