蜘蛛の巣の迷宮

4.

 暗い室内で、光の届かぬ場所に座したその男の表情は伺えなかった。
 男と自分を繋ぐ黒い板張りの床。
 二人を隔てるように、その中程に格子から差し込む木漏れ日が横たわる。風を受けて絶え間なくうごめく新緑の光。暗い床にちらちらと反射し、時折目を貫く。
 その光を目の端で捕らえながら、話を終えた使者は動けずに男の方を向いたままだった。
 寺から派遣され、その目的は伝え終えた。
 任務の半分を遂行したところ。
 さて、これから自分はどうなるのか。
 以前から耳にしているこの男、月虎夕羅と組織に関する数々の噂は真実なのか。はたして自分は生きて帰れるだろうか。
 使者の男はそっと唾を飲み込んだ。
 彼の顔が見えぬことを感謝すべきか否か。
 暗がりの中、彼の輪郭と手に巻かれているのだろうか、包帯の白さが浮かび上がるのを男はぼんやりと見つめていた。
 使者にとっては永遠に等しい沈黙が訪れた。
「知らぬ、と言いたいところだが…」
 やがて夕羅は静かに口を開いた。使者がびくりと反応する。
「その者ならここに居る。こちらの人間も随分と派手に殺ってくれてな」
 暗がりから静かな笑いの気配が漂ってくる。男は身を縮めた。
「その意味では、こちらにも主張する権利はあるわけだ」
「…ですが…」
 乾く唇を懸命に動かして男は声を上げた。しかし先の言葉は出てこず、再び沈黙が走る。
 男は下を向き、床を踊る光を見つめた。
「いくら必要だ?」
 威圧的な言葉は突然のように上から降ってきた。声は部屋の隅々まで浸透し空間を支配する。
 意図を測りかねて使者は恐る恐る夕羅の顔を見上げた。
 ようやく暗さに慣れてきた目に、立ち上がった夕羅の姿が映る。その表情は言葉ほど感情を表してはいなかった。
 だが有無を言わさぬ迫力がその瞳を煌かせるのを男は見た。
 色を失いかけた使者に対し、夕羅は更に畳み掛けた。
「言い値で買ってやる。…世間体も有る分、そちらの方がいろいろと入用であろう?」
 使者は黙って引き下がる他なかった。
 帰り道、どちらの方があの子供にとって幸せだったのかという疑問がちらりと頭をかすめたものの、彼にはこの巣窟から無事に帰れることの方が重大だった。


 さわさわと風が渡り、五右ェ門の額にかかった髪を舞い上げた。
 じっと動かずにいた少年は初めて、上目遣いでその様を見上げ前髪に手をやった。そのままの姿勢で風の行方を追う。
 縁側に腰を下ろし、五右ェ門はもう長い間じっと庭を見つめていた。
 庭にも離れにも、五右ェ門以外人の気配はない。
 常と変わらない時間が流れていた。
 ただあれ以来、夕羅の姿を見ないだけで。

 庭とはいえ、囲いも何もないその空間は少し行くともう山に入り込む。風を追った彼は、山の入り口の林の木が揺れるのを見守っていた。
 動くものを感じてふっと視線を下ろした五右ェ門の目の前。
 少し離れた空間にいつの間にかその少女は立っていた。
「あんたが五右ェ門?」
 視線を受けて、吐き捨てるように少女は言った。あっけにとられて五右ェ門は彼女を見つめた。
 返事を待つ様子もなく、彼女は数歩五右ェ門の方へと近付いた。その場から五右ェ門を覗き込み、頭の先から足の先まで眺め回す。
「…な、何…?」
「…まだ子供じゃない」
 あっさりと彼女は切り捨てた。
 むっとして五右ェ門は彼女を睨み返した。自分の名前を知っているのも気に食わなかった。
「何か用?っていうか、君誰?」
 精一杯つっけんどんに言い返す。
「たまき、よ」
 面倒臭そうに少女は言った。そんなことはどうでもいいと言わんばかりだ。五右ェ門の顔をしばらく眺めた末、少女は意を決したように言葉を発した。
「…ねえ、あんたって『カコワレモノ』なの?」
 唐突に発せられたその言葉を、五右ェ門はきょとんとして問い返した。
「何?それ」
「皆がそう言ってるわ、あんた自分のことなのに知らないの!?」
 自分の言葉にあまり効果がなかったことに腹を立てたのか、少女は語気を強める。
 その勢いに押されて意味をわからないまま五右ェ門はつい言ってしまった。
「…じゃあ、そうなのかもしれない…」
「何あっさり認めてるのよ!」
 速攻で悲鳴にも近い叫び声が返ってきて、五右ェ門は目を瞬いた。
 どうして初めて会った彼女が自分のことにこれ程ムキになるのか、検討がつかない。
 ほとんど泣きそうな顔で、たまきは叫んだ。
「皆がそう言ってても、自分がそうじゃなきゃそうじゃないのよ!しっかりしなさいよッ!」
「…う、うん…」
 迫力に押された形で五右ェ門はこくこくと頷いた。
「本当はどっちなの!?」
 詰め寄るたまきの目の真剣さに、五右ェ門はこう答えるしかなかった。
「…違う。……と思う…」
 後の言葉はかなり小さな声で付け加えられた。幸い後半のセリフはたまきには聞こえなかったらしく、彼女は納得したように頷いている。
 ほんの少しだけ、その顔には明るさが戻っていた。
「そうよ、そうに決まってるじゃない」
 自分に言い聞かせるように、たまきは真剣な眼差しで呟いていた。

「…夕羅様がそんなことなさるはず、ないんだから」





(04.10.8/06.03.27改訂)



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