蜘蛛の巣の迷宮

2.

 少女と見紛う可憐な容姿。
 その容姿と年齢に見合わぬ剣の腕。
 容貌と才能に恵まれた少年はその代償であったのだろうか、物心つく年頃になると数々の困難に見舞われることとなった。
 両親を相次いで亡くし親類をいくつか盥回しにされた挙句に、彼はとある寺に預けられる。
 寺は外部からの客などめったに訪れない山奥にあった。年頃の少年には退屈過ぎるような場所であったが、彼はそこで両親を亡くしてから初めて穏やかな暮らしを手に入れた。
 喧騒から離れて仏の道を極めたい者と武術を極めたい者と、一見対極に位置する者たちがそこには集っていた。
 剣の稽古に集中出来る環境は、少年にとっては何にも変えがたい貴重なものだった。剣に長けていた彼にとってそこはある意味天国。
 しばらくの間、少年は幸せに暮らしていた。

 ――とある僧侶が彼に懸想するまで。



 少年は見知らぬ部屋で目を覚ました。
 いつも寝起きしていたのと同じような和室。
 だがより広くより堅牢な作りの部屋だった。
 障子から射し込む光の揺らめきが見慣れぬ影を作る。
「…ここ、どこ…?」
 天井を見上げた姿勢のまま、少年は呟いた。
 全身にまだ鈍い痛みが残る。
 曖昧な記憶を辿り、彼はそっと鳩尾に触れた。刀の傷とは違う痛みを感じる。
 ためらうことなく正確に打ち込まれた拳の跡が、そこには青く残っていた。


「あの子供、気がついたそうだ」
 世話をしていた部下から報告を受けた夕羅は、傍に立つ速水に告げた。
「生き残りましたか…運のいいことで」
 辛辣な言葉を、速水はさらりと言ってのける。夕羅はその言葉に苦笑した。
 どちらの方がより冷酷なのかは、当人たちにもわからないことだった。
「そうでなければ意味がない」
 少年を捕らえた状況を思い返して夕羅は目を細め、更に呟くように付け加えた。
「…せいぜい利用するさ」


 元々健康な肉体を保有する少年の回復は早かった。あてがわれた離れで少年は確実に体力を取り戻していくかに見えた。
 身の回りを世話する者が数名。どこからともなく現れ去っていく。
 その間互いに言葉を交わすことはない。
 少年は世話する者に逆らうことも何かを問い掛けるような素振りさえ見せずに日々を過ごしていた。
 親を亡くしてから学んだ彼なりの生きる術だったのか。
 自分の運命を諦めたのか。
 それでも他に訪れる者もない静かな暮らしは、まるで以前と変わらぬ穏やかな日々のようだった。

 だがある日の夕方。
 それは春には珍しく汗ばむ陽気となった一日が終わろうとする頃。
 夕食後いつものようにひっそりと時を過ごしていた少年を訪ねて来た者がいた。
「夕羅様がお呼びでございます」
 見知らぬ男は少年に向かってそう、告げた。
「…ゆ…ら…?」
 少年は首を傾げたが、素直に男の後を付いて行った。
 連れて行かれたのは邸宅の中でも奥まった一角だった。
 一人で入るよう促され、少年は歩を進めた。人の居ない廊下を進み、薄く開いた襖の部屋を覗き込む。
 障子を通して差し込む光が赤く少年の目を射抜いた。眩しさに細めた瞳で少年は紅に染まる室内と、その光を遮るように佇む長身の人物を見た。
 逆光の中、気配に振り向いた人影は障子の白さを背景にくっきりと輪郭を浮かび上がらせている。
 男はまた窓の方を向き少しだけ開いていた障子に手をかけた。山の端にかかる太陽が視界から消え光が和らぐ。
 室内は夕闇に沈み、窓際に立つ男の姿が僅かだがはっきりと見えるようになった。
 室内に居たのは隻眼の男。腰までも届く黒髪を流し、部屋の端から少年を眺めている。
 ――自分を殴りつけた男。
 屋敷はこの男のものだったのだ。
 戸口で立ち竦んだ彼に夕羅はつかつかと歩み寄り、いきなり顎を掴んで上向かせた。
 その目を覗き込む。
「普通の目だな…あの時は血に惑ったか?」
 その瞳の強さに、少年は逆らうことも反論することも出来ずに見つめ返す。
 一つしかない瞳。だが。
 この男の目は二つ分、否、それ以上のの強さを持っている。
「まあ良い…お前、名は?」
 少年は瞳に惹きつけられ、無意識に口を開いていた。
「…石川…五右ェ門…」
「…五右ェ門?面白い名だな」
 面白くもなさそうに夕羅は呟き、指を離した。
 掴まれた皮膚に残る指跡に五右ェ門はぼんやりと触れた。夕羅の顔から目を離せないまま。
「来い」
 夕羅はすたすたと先へ立ち隣室へと向かう。振り向きもしない。
 その部屋を通り抜け、夕羅は更に奥の部屋へと入っていった。
 恐る恐るついて行った五右ェ門は夕羅が入っていった部屋の中を見、息を呑んだ。
 薄暗い部屋に整えられた白く浮かび上がる寝具。それはかつて見たのと同じ光景。
 やがてその白い布地が朱に染まっていく様さえ見えるようだった。
「あ…あ…あ…」
 喉の奥から漏れてくる声を夕羅に聞かれまいと五右ェ門は両手で口を塞いだ。じりじりと後ずさる。
 踵を返そうとした五右ェ門は夕羅に足元をすくわれ倒れこんだ。立ち上がろうとしたところを再び足で払われ、畳の上を這う。受け身を取る余裕もなく全身を叩き付けられた。
 冷静に、正確に、五右ェ門の動きは封じ込まれる。
 次に来る攻撃に怯え、五右ェ門は懸命に振り向いた。
 夕羅はそれ以上は押さえつけようとせず、ただその様を眺めていた。
 獲物を弄ぶ猫と同じだった。肉食獣の瞳。
 自分が籠の中に居るのではないかと少年は錯覚を覚える。
 それでも五右ェ門は再び起き上がりなんとかこの男の手から逃れようと隣の部屋へと走った。
 夕羅は驚きもせず無言のまま、その後を追う。
 襖まで辿り着いたところで横から突き飛ばされ、少年は床に転がった。
「ぅあ…ッ!」
 衝撃にのたうつ五右ェ門の姿をつまらなさそうに夕羅は見下ろしていた。ゆっくりと少年に迫る。
 立ち上がった五右ェ門は床の間に飾られた刀へと懸命に手を伸ばした。握りしめた瞬間その手は掴まれ、叩きつけられる。角の部分にぶつけられて五右ェ門は悲鳴をあげた。人の身体から聞こえてはいけない音が聞こえた気がした。
 手からこぼれた刀が跳ね返って木の床に傷を作り、畳へ落ちる。
「逃げるつもりならもう少しうまくやれ」
 上から冷たい声が降りかかった。
 床の間の板の上で、五右ェ門は両手を掴まれ拘束されていた。肉付きの薄い少年の身体は抵抗しようもなく押さえ込まれた。体格に差があり過ぎる。
 五右ェ門は逃れようと夕羅の下で懸命にあがいた。畳に落ちた刀へと視線を送る。
 夕羅はその視線を追い、冷笑した。五右ェ門を見下ろす。
「なるほどな…。そうやって坊主を殺して逃げてきたか」
 その言葉に五右ェ門がびくりと反応した。
「しかし今度は一体どこへ逃げるつもりだ?…また坊主どものところへ戻るか?」
 嘲りを含んだ口調で夕羅は告げる。
 夕羅の下で少年の身体は凍りついていた。
この男は全てを把握した上で自分をこのような目に合わせている。その事実を突きつけられて。
 夕羅の指が五右ェ門の着物にのびる。
「やっ、やめろぉ…ッ!!」
 既に乱れた着物を肌蹴させ、夕羅の舌が五右ェ門の喉を這う。
 身体を引き攣らせ、五右ェ門は声にならない悲鳴を漏らした。自由になった片手を振り回して抵抗を試みるが効果はない。
 封じ込まれたままのもう一方の手は、ちょうど先程叩き付けられた部分を夕羅の指に押さえつけられていた。既に変色し熱を持っている。
 その痛みさえも感じられないほどに、不快感が喉元から全身を伝っていった。
「…い…や…、い…や…だぁぁぁぁ…」
 力なく声を上げるが、夕羅は止めようとはしなかった。
 機械的に少年の身体を弄り、跡を残す。未だ残る傷跡にも包帯の上にも変わりなく指を滑らせ唇をつけた。
 まだ完全に癒えてはいない傷口に触られる度五右ェ門は息を呑み、悲鳴を上げた。
 夕羅の指が裾を割り、中へと潜る。改めて五右ェ門は体を硬くした。夕羅が顔を上げる。
 その目に五右ェ門は魅入られる。動けなくなる。
 蛇に睨まれた蛙と同じ様に。
 寺の草むらで五右ェ門は見たことがあった。蛇と対峙した小さな蛙は本当に動けなくなっていた。なぜ逃げないのかと、五右ェ門は持っていた箒で蛇を追っ払ってやった。それでもまだ蛙は動けずにいたのだ。
 今ならわかる。
 動けなくなる理由が。自分がこれからどうなるかわかっていても、逃げることの出来ないわけが。
 自分が獲物に過ぎないことを五右ェ門は悟る。
 この男の瞳の前では逆らうことの出来ない弱者に過ぎないことを。
「ここではやりにくいな」
 ふいににやっと夕羅は笑い、少年の身体をを軽々と肩に担ぎ上げた。寝室の布団の上に乱暴に投げ下ろされる。
 逃れる間もなく夕羅の身体が被さり、帯を解かれた。薄い皮膚の上を再び夕羅の指と唇が滑る。
 恐怖に歯が震える。かちかちと鳴る歯の隙間から五右ェ門は声を漏らした。
「…助け…て…」
 誰にも届かない言葉を、五右ェ門は誰に届けたいのかもわからぬまま繰り返していた。

「…お願い…誰か……たすけ…て…」

(04.3.19/06.03.27改訂)




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