BLUE MOON
『
――私は…私は、父上にとっていらない子供なのですか!?答えて下さい! 父上ッ、父上…ッ!!』
ただ一度、父にそう問い掛けたことがある。決して口に出すまいと心に決めていた重い言葉は、口に乗せた途端に真実となり、あまりにも軽い事実となった。
そしてその言葉をぶつけたはずの父親の背中は一度も振り向かずに遠ざかっていった。
そして彼は後悔した。
自分と父親はそのような事を語り合う関係などではないのだから。
今なら、少しはあの時の父の気持ちがわかる。彼はあの時よりも大人になり、多少は父の歳に近付いた。
……子供でも出来ればもっと理解出来るだろうか。
あり得ないだろうことを考えて彼は苦笑し、我に返る。また余計なことを考えてしまった。常に心の奥に封印しているはずの思い出は何かの拍子にふいに浮かび上がり、彼を捕らえる。
「まだまだ修行がたりぬ、か」
わざと口に出してみる。そして彼は立ち上がった。出かける時間だった。
1.依頼
くたびれた部屋を出、古びた廊下を抜け、錆びた階段を下りる。下り立った通りは、アメリカ合衆国の頭痛の種、まともな人間なら決して近付くことのない裏通り。盗みと殺し、酒とクスリづけの無法地帯。
だが今の彼には居心地がいいとは言えないにしろ、表通りを歩くよりましだった。彼のいでたちに不信の目を向ける者もいない。
裏通りを抜け、表通りを横切って彼が入り込んだのは別の裏通りだった。彼が住む通りよりは犯罪の匂いの少ない、しかし格段に貧しい街であった。
さらに細い路地に入り込んで、彼は一件のアパートの前で立ち止まった。
(多分ここ……)
聞いていた住所と自分の勘に間違いなければ……。
彼は建物の中に足を踏み入れた。今にも落ちそうな木の階段を三階分上がり、同じ位抜
けそうな木の廊下を用心深く歩く。酔いつぶれてドアの前で眠り込んでいる小さな老人のすぐ横に、彼の探していた部屋はあった。
……目印は白い百合の花……
外れかかっている木のドアに無造作に、それはピンで留め付けてあった。
(……何というか……)
かすかなおかしさを覚えながら彼はドアを教えられた数だけノックした。
「開いているよ」
間髪入れずに、妙にのんきな声が部屋の内部から帰ってきた。その声に彼は一瞬戸惑っ
た。依頼主とは違う。
(女の子……?)
用心深く開けたドアの向こうは彼の部屋とほとんど変わらない、古びて殺風景な部屋。
その真ん中に一人の少女が膝を抱えて座っていた。
胸の辺りできちんと切り揃えられた黒髪が印象的な、日系人らしき少女……。その足元
には落書きの跡の見える紙と、ペンが散らばっていた。退屈していたらしい。
「ジュリアとお仕事の約束した人でしょ? ええと……イシカワ……?」
「石川五右ヱ門、だ」
それが少女と五右ヱ門との、運命ともいえる、出会い。
いまだ戸惑い気味の五右ヱ門を尻目に、少女は勢いよく立ち上がり戸口へと歩いていった。
「あ〜あ、おじいまたこんなとこで寝てるよ」
外を覗いてつぶやくと、戸の外側に留めてあった百合の花を持って戻ってくる。
「ジュリア、もうすぐ帰ってくるよ。あたしはお留守番だから」
百合の花をもてあそびながら少女は五右ヱ門のほうを見ずに言った。流暢な英語だった。
「……おぬしは、一体……」
五右ヱ門の、思わず口からこぼれた問いとも言えぬ言葉に答えるように、彼女は彼の目
を見ていたずらっぽく微笑んだ。
「『しらゆり』よ。『ホワイト・リリー』じゃなくて、し、ら、ゆ、り」(ここで彼女はわかるわけないか、とでも言うように苦笑いした。)「ジュリアが付けてくれたの」
いきなりの日本語の単語に彼はわずかに混乱した。
「だからあなたもそう呼んでね」
「あ、ああ……」
「好きなとこ座ってて」
『しらゆり』はもうそれ以上五右ヱ門に構わず、流しのほうに歩いていった。コップに水を入れ百合の花を挿す。それを部屋の数少ない家具であるテーブルの上に置き、今度は窓のほうに歩いていった。その動作の一つ一つは軽やかで、彼は目を放せなかった。
ジュリアと石川五右ヱ門の仲はそれほど深いものではない。旧知の仲ではあったが、今
まで一緒に仕事をしたことはなかった。お互いに個人業なせいもあるだろうが……。
顔を合わせば話くらいはするし、一緒に飲みもする。だがそれ以上付き合うことはなかった。
とはいえ、人付き合いのない五右ヱ門にとっては数少ない知り合いの一人である。ジュリアにしても似たようなものであった。お互いに孤独な人間同士。
(しかし……あの男、この娘のことは一言も言っていなかったな)
しらゆりを見つめながら、五右ヱ門はかすかに苦笑いした。
その時、彼が叩いたのとは違うパターンでドアをノックした者がいた。しらゆりがぱっと振り向く。
「開いてるよッ」
とれかかったドアを開けて入ってきたのは、黒というよりは紺に近い髪の色をした背の高い青年。その無造作な長髪が色白で端整な顔を縁取っていた。瞳の色は深いブルー。
男はその瞳で部屋を見渡す。
窓際のしらゆりにちょっと片手を上げ、五右ヱ門に向き直った。かすかに微笑む。
「すまない、遅くなった」
「いや、かまわぬよ。ジュリア」
相も変わらずマイペースな男だ、と五右ヱ門は思う。いや、人のことは言えないか。自分もきっとそう思われているだろう。
ジュリアは五右ヱ門にちょっと待つように手で合図をし、窓際のしらゆりに近付いた。少女はもうだいぶ前からそこで洗濯物と格闘していたのだ。隣の建物との間に渡してある紐に干された洗濯物は、少女が取り込むにはあまりに高いところにあった。
ジュリアはしらゆりの肩越しに楽々と手を伸ばし、干してあった衣類を手に取ると少女に手渡した。たぶん、出がけに彼が干していったものなのだろう。
しらゆりは不本意そうにちょっと頬を膨らませたが、直ぐに洗濯物を抱え部屋の隅へと歩いていった。
ジュリアは改めて五右ヱ門のほうに向き直り、テーブルを指差した。
「そこに座っていてくれ。紅茶で良いだろう? ま、良いも悪いもそれしかないのだがな」
最後の言葉は苦笑の混じった独り言。
五右ヱ門は二脚しかない椅子の一つに腰を下ろすと、ジュリアを待つ間テーブルの真ん中に置かれたコップの中の白百合を眺めていた。
「しかし、おぬしが拙者に仕事の依頼とは珍しいな」
五右ヱ門の言葉に、向かいに座ったジュリアが照れたように微笑む。しらゆりは彼等とは反対側の壁にもたれ掛かり、おとなしく紅茶のカップを抱きしめて座っていた。
「……仕事と言っても大したことじゃない。言ってしまえば、俺の仕事中の護衛なのだが……」
彼はそこで口を閉じ、言葉を探すかのように指で唇をなでた。もう一方の手で無意識に紅茶のカップをはじいている。
「……いないと困る。なんというか、他の人間には頼めないんでな」
彼はまた困ったように黙り込んだ。思いを言葉にすることも、人に頼みごとをすることも慣れていないのだ。だからいつも一人で処理してしまう。
「おぬしの仕事というのは?」
「いつもと同じだ。あるものを盗み出してほしい、というな。だが今回はちょっと勝手が違う」
ジュリアは依頼専門の泥棒である。
自分のための盗みはしないが、人から頼まれればどんなものだろうと痕跡一つ残さずに盗み取るか、すり替えてしまう。五右ヱ門も彼の仕事を実際に見たことはないが、その筋ではかなり有名であった。
「調べてみたのだが、その依頼品が保管されている所は、とある組織の金庫の中だ。金庫の中には他にもいろいろなものが入っていて、厳重に管理されている。金庫の回りも、建物の周りもかなりの数の『兵隊』に守られていてな。俺一人ではとても手を出せない」
「……拙者に盗みの手伝いをしろと?」
「違う、違う」
彼は慌てて苦笑混じりに否定した。
「確かに盗みの手伝いといえば手伝いだが……。要は俺が仕事を無事に終わらせるための用心棒を頼みたいのだ。あんたは一番信頼できるからな」
いつしかジュリアは真剣な眼差しで五右ヱ門を見つめていた。最初の頃の、居心地の悪そうな雰囲気はすっかり消えている。仕事の顔付きだな、と五右ヱ門は考えて目を細めた。
彼もこの依頼について、真剣に考える必要が出てきたのだ。
「一切の証拠を残さずに、というのが俺の主義だが今回はそうもいかない。依頼を遂行するためには多少の犠牲はやむをえんというわけだ」
彼は唇の端に自嘲めいた笑いを浮かべた。
「名前を売るチャンスとも言えるのではないか?」
「……そうかもな」
五右ェヱ門の問い掛けにジュリアは気のない返事を返した。
もともと欲のない人間である。卓越した腕を持ちながら、それを生活のため以上に使う気はないらしい。とはいえ、今回の仕事は今までと比べてかなり大きかった。成功すれば彼の名はさらに広まるだろう。
「わかった」
しばらくの沈黙の後、五右ヱ門はあっさりと言った。
「この仕事、拙者引き受けさせてもらう」
予想していた展開であったのか、ジュリアはその言葉を静かに聞いていた。
「そうか……悪いな。手を汚すことを全部あんたに押しつけるようで」
言葉と裏腹に彼は安心したようにかすかに笑みを浮かべた。そして五右ヱ門もつられたようにかすかに微笑むと言った。
「人斬りは人を斬るのが仕事。おぬしはおぬしの仕事をすればよい」
さらにいくつかの打ち合わせをして、五右ヱ門がジュリアの部屋を出た時にはすでに夕闇が迫っていた。帰り際にしらゆりは彼に向かってバイバイと手を振り、彼にも手を振り返すことを強要した。
裏通りには人気がなかった。昼間の人間と夜動きだす人間が、ちょうど入れ替わる時間の狭間なのだろう。五右ヱ門はゆっくりと歩いていた。自分のアパートに帰るつもりではあったが、何となく当てのない足取りであった。
『剣を究めるためには人斬りも辞さず』
それが彼の剣士としての信念である。
しかし、いつしか人を斬ることは彼の仕事となっていた。修行のためなのか、生活のためなのか。いつか自分は人斬りをしている本当の理由を見失ってしまうのではないか。自分の存在理由さえ無くしてしまうのではないだろうか。
時々、彼の頭をかすめる、ぼんやりとした絶望。
(俺が本当に見つけたいのは何なのだ……)
不意に彼は手を伸ばした。その指先の遥か遠くには、ビルとビルに区切られた空に白く浮かび上がる一番星。永遠に届かない、彼の望み。それが何なのかさえ彼にはわからない。
最初から失われた未来。
それでも彼は手を下ろせなかった。もしかしたら届くかもしれない。後ちょっとなのかもしれない。今手を下ろしたら、本当に永遠に失ってしまうかもしれない。もしかしたら、そう、もしかしたら……
『いつか父上は私を見てくれるかもしれない』
それが少年だった彼のかすかな望み。
父の期待に応えるような剣士になれば、父は彼を『見て』くれるかもしれない。それが意味のないものだとわかっていながら、少年にはそれにすがりつくより術はなかった。全てをあきらめるには彼はあまりに幼すぎた。
本当はわかっていたのだ。
父が自分を愛していないことを。
母を失ったあの日から、否、母が生きていた頃から、横たわっていた大きな溝。
幼い五右ヱ門の頬をなでて『ごめんね……』と母が言ったあの日、泣くことを許されなかった父と子。あの時、二人は共通の痛みを分けあったはずなのに、なぜわかりあえなかったのか。
星々が輝き始めた空の下で五右ヱ門は苦しげに目を閉じた。その腕はすでに力なく下ろされていた。
(もう、終わったことなのだ)
懸命に自分に言い聞かせる。
もう戻れはしないのだ、永遠に。
父親とてもうこの世の人ではない。彼一人あれこれ考えたところで何になろう。
そしてそっと目を開く。何事もなかったように歩を進める。
目を閉じても何も変わらないけど、自分の心を偽ることはできる。無意識に身に付けた、彼の生きる術だった。