BLUE MOON
6.しらゆり
鈍い痛みと共に五右ヱ門は目を覚ました。
意識が回復した途端に今まで感じていなかった鈍痛に襲われる。そして彼は自分の置かれている状況を思い出した。
まだ辺りは真っ暗だ。気を失ってからそれほど時間は経っていないらしい。
まだ力の入り切らない指先で彼は胸を押さえた。きつく目を閉じる。
(この思い出だけは夢にも見たことがなかった……)
完全に忘れ去ることに成功したと思っていた。
結局、すべてから逃げ出すことなど、不可能なのだ。どんなに遠く離れた新しい場所でやり直したって、心が新しくはならない。思い出は消し去ることは出来ない。どんなに遠く、時の彼方へ押しやられても、失うことはない。
ゆっくりと、用心しながら五右ヱ門は立ち上がった。今は、しらゆりの元へゆくことが先決であった。間に合うかどうかは別として……。
眩暈や吐き気は感じなかった。鈍い痛みがあるだけだ。どうやら、それほどひどくはないらしい。
それでもどうかすると地面に膝を付きそうになる震える足を踏み締めて、五右ヱ門は歩き出した。
そこは一か所だけ、明かりがともっていた。
しらゆりがいるはずの場所よりいくらか手前の、小さな中庭である。建物の壁に取り付けられた街灯が、僅かな空間を白く照らしだしていた。
五右ヱ門は足を止めた。その明かりの下に人影を認めたからである。
構えようとして、彼はその手を止めた。その小柄な影は立ち尽くしたまま動こうとしなかった。うつむき加減の顔は、胸まである黒髪に遮られて表情を読むことが出来ない。
「しらゆり」
自分の声が思ったよりもかすれていることに驚きながら、五右ヱ門はゆっくりと近付いた。
彼女の足元には無数の男達の死体が転がっている。五右ヱ門が取りこぼした敵の残りだ。彼のすぐ近くに転がっている死体に見覚えがあった。リーダー格の男だった。
しらゆりはじっと立っていた。
目の高さに持ち上げた左腕を見つめている。その腕からは血が流れていた。五右ヱ門は手当てをしようとそばに行きかけたが、彼女の顔を覗き込んでそのまま凍り付いた。
その瞳には今まで見たこともない感情が宿っていた。
無表情に、瞳だけが透明な光をたたえている。五右ヱ門の背中を冷たいものが走っていった。心臓が冷たくなって行くのが分かる。
俺はこの子の何を知っているというのだろう。ジュリアですらこの子の本当の心を知らないだろう。
そんな思いが彼の心を走り抜ける。
悲しいくらいに冷えきったその瞳から五右ヱ門は目を放せなかった。感情を殺すことを義務づけられ、人を殺すことでしか生きていけない人間が彼の目の前に立っていた。
長い沈黙の後、初めてしらゆりが五右ヱ門のほうに顔を向けた。その目はいつもの無邪気さに戻りつつあった。
「…ジュリアはどうした?」
やっとのことで五右ヱ門は声を絞り出す。
「さあ、そろそろ戻ってくる頃かな」
その言葉にはいまだ感情がない。
「知らせていないから。仕事の邪魔をしたくなかった」
「おぬし一人でこれを?」
辺りの死体を改めて見回し、五右ヱ門は問い掛けた。
「他にいないでしょ」
自嘲気味に彼女はつぶやく。大人びたその口調は恐らく本来の彼女なのだろう。その右手に血にまみれたナイフが握られていることに五右ヱ門は気付いた。
だがそれ以上は何も触れずに、彼はしらゆりの左手をとり、腕の傷を調べた。それほど深い傷ではなかった。袂から手ぬぐいを取り出し、その傷に巻き付ける。
「……いっそ、緑の血が流れていたらいいと思わない?」
不意にしらゆりが口を開いた。
「えっ?」
言葉の意味が分からずに五右ヱ門は問い掛ける。
「緑の血が流れていたら、自分が他の人間と違うことがわかるじゃない? なまじ同じ色をしているから、自分もまともな人間だと思い込んでしまうじゃないの。皆と同じだと思うじゃないの」
その目が奇妙に乾いていることに五右ヱ門は痛みを覚える。
「……生まれてこないほうがよかったんだから」
『私は…私は、父上にとっていらない子なのですか!?』
だったら、父親はあの時どうしてあんな目で自分を見送ったのか。
生まれてくるんじゃなかったと何度思ったか。そして、なぜ自分はいまだ生き続けているのか。矛盾に満ちた世界で自分だけが苦しんでいるのだと思い込んでいた。
父親の苦しみも、しらゆりの深い闇も、恐らくジュリアも抱えているに違いない痛みも、何も気付かなかった。
不意に涙が込み上げてくる。それがしらゆりへの哀れみなのか、自分への嘲笑なのか、人生を知った喜びなのか、分からないまま、彼はそれを心の奥にしまいこんだ。涙は感情をうやむやにしてしまう言い訳にすぎないから。
「…でも、ほっとする。まだ自分には赤い血が流れている、まだ戻れるのかもしれないって思うの。気休めでもいいの、それで自分がまともでいられるなら」
言葉を切ったしらゆりが不意に驚いて五右ヱ門を見上げた。それはいつもの、よく動く表情をもつ彼女そのままだった。
「五右ヱ門、血だらけじゃない! どこ切ったの? しらゆりの手当てしてる場合じゃないってば!」
変わるのが早すぎる、と五右ヱ門は心の中で眩暈を覚えながら答えた。
「これは返り血だ、拙者の血ではない」
そういいながら自分の姿を見下ろして、五右ヱ門は自分が随分ひどい有様になっているのを発見した。
返り血のほかに、倒れていたときに地面に流れた血を吸ったらしく、着物は地の色を見つけるのが難しいほどである。そういえば顔にも血を浴びたな、と五右ヱ門は苦笑いをした。両手も真っ赤に染まっている。刀の鞘も柄も新しいものにしなくてはならないだろう。
外の様子を全く知らなかったジュリアは、待ち合わせ場所で待っている二人の様子を見て呆然と立ち尽くしてしまった。
全身に返り血を浴びた五右ヱ門と、両手を自分と敵の血でそれぞれ染めたしらゆりは、真っ青になってしまったジュリアに見た目よりひどくないことを慌てて説明しなくてはならなかった。
「で、仕事は上手くいったのか」
まだ不安そうに五右ヱ門の全身を眺め回すジュリアに、彼は問い掛けた。
「ああ、こっちはそう難しくなかった。金庫を開けるのに時間は食ったがね。ほら、獲物だ」
書類の束を持ち上げてみせる。
「じゃあ、とっとと引上げましょ。騒ぎになる前に」
しらゆりはそう言うとさっさと駆け出した。五右ヱ門とジュリアも遅れて後を追った。
闇がいまだ、世界を支配していた。男達の死体が太陽の光を浴びて哀れな姿をさらすまでの、つかの間の静けさであった。
そののち、どういう事が起きたのか、五右ヱ門たちは知らない。彼等は疲れ果てて丸一日眠り込んでいたからである。ただ、この事件が闇から闇へと葬り去られたことは確かであった。新月の作り出した闇から、さらに暗く、深く、うごめく闇へと。
しかしその闇の底から染み出した噂はひっそりと、確実に辺りに広がっていった。誰もがそれをジュリアたちの仕業であると知り、そしてそれを口に出そうとはしなかった。