BLUE MOON

5.遠い想い出

 何か特別な思いが浮かんでくるかと思っていたが、彼には何の感情も沸いてはこなかった。彼自身、そのことに驚きはしなかった。もう、だいぶ前から決心していたことだったからだ。
 頭の中で何度も繰り返したことを、いま実行に移すだけだ。
 仏壇に向かい、母親に最後のあいさつをすると、彼は立ち上がった。
 僅かな荷物を抱え、玄関に向かう。長年、この家に通ってきている手伝いの老婆が、遠慮がちに彼に別れの言葉を掛けた。
 父親に別れを告げるつもりはなかった。彼の決意を告げて以来、すでに何週間も口をきいていない。姿すら見ていないかもしれない。
 玄関の戸を閉め、飛び石の上を門へ向かって歩く彼の耳に、渡り廊下を走り込む足音が聞こえた。それが僅かに彼を動揺させた。一瞬足が止まる。
 それが父親だということを彼は直感した。そしてそれは彼の予想外の出来事だった。
 彼は振り向かなかった。そのまま門の引き戸に手を掛ける。
 門を出る時、僅かに傾いた彼の顔が、家のほうに向けられる。瞳の片隅に、彼は庭に面した廊下に立つ父親の姿を捕らえた。その顔に浮かぶ表情も。
 それは彼が今まで見たことのない父親の姿だった。
 彼が父親の決めた道場に行かないこと、この家を出ていって二度と戻らないことを告げた時にも父親は父親のままだった。初めて息子が逆らったことにも驚かなかった。
 彼はそのまま外に出た。
 彼は父親の姿に目を閉ざした。見なかったことにしたかった。そうしなければ、自分がしたことが意味のないものになってしまう。
 彼は黙って歩き出した。それが五右ヱ門と父親の永遠の別れだった。

 あの時、彼と父親の立場は逆転したのだ。
 ずっと、考えないようにしていた。忘れたふりをしていた。
 激しい後悔の表情を浮かべて、父親はそれでも五右ヱ門を止めることが出来ずに見送っていた。その時初めて、彼は父親の心の闇の深さを見たのだ。
 それでも、気付かないふりをしていた。
 父親を絶対者として捉えることで、五右ヱ門はここまでこれたのだから。
 そうしなければ父親を捨てたことに一生苦しまなければならないではないか。
 最後まで、父親としていてほしかった。越えられない壁でいてほしかった。

 ――そうすれば憎しみだけで済んだのに。





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