BLUE MOON
4.闘い
空気が変わった。
五右ヱ門は一瞬にしてそれを読み取った。それが彼等にとって吉と出る内容ではないということも。
五右ヱ門は広い敷地内を横切り、待機場所に向かう途中だった。足を止め、鋭い視線を辺りに走らせる。何者かがいる気配は無い。なのに空気には、彼の神経を逆撫でする信号が入り乱れていた。
嫌な予感がする。
ジュリアが彼の視界から消えてから十分が経っていた。今ごろは金庫に着いている頃か。外の『兵隊』に関しては五右ヱ門が念入りに始末した。中の人間もジュリアが眠り薬で眠らせている。動ける人間はいないはずだった。
(調べた以上の人間がまだどこかにいるというのか)
その集団はどんどん近付いているようだった。すでに殺気までもが読み取れる気がする。だが何人かまでは分からない。
「しらゆり、聞こえるか?」
袂から取り出したレシーバーに五右ヱ門は低く呼び掛けた。答えは直ぐに返ってきた。
『聞こえる、何?』
「外から敵が近付いている。規模はまだ分からぬ。ジュリアに知らせてくれぬか。拙者がしばらく食い止めてみる」
『……分かった。気をつけて』
通信を切ると五右ヱ門は門へ向かって走り出した。空気中の悪意の密度が濃くなっている方向へ。
門の外へ飛び出した五右ヱ門はそこで素早く体勢を整えた。まだ敵は視界には入っていない。しかし相手も五右ヱ門の存在に気付いたようだ。前よりも用心深く近付いてくる。
五右ヱ門は門にたどり着くだいぶ前から自分の気配を消すことを止めていた。敵を自分の方に引きつけるためだ。敵に自分の実力を低く見せて油断させる目的もあった。
五右ヱ門は油断なく辺りを探る。夜の張り詰めた空気が彼の皮膚をひき締め、彼は目を閉じた。決して自分の中に閉じこもるためではない。視覚を閉ざし、他の部分で外部を探るためである。
彼の位置からしらゆりの気配は捕らえることが出来なかった。
(そういえば、)
彼はふと気付いて薄く目を開けた。
(しらゆりの気配を感じたことがあっただろうか)
五右ヱ門はしらゆりのいるはずの方角へわずかに顔を向けた。そして不意に視線を戻す。
その瞳にはもうゆらぎも迷いもない。何者も寄せ付けない鋭い眼差しが闇を見据えた。
(来たか)
五右ヱ門は改めて体勢を整え、柄に置いた右手に力を込めた。
闇の中で、屋敷に近付いてくる集団は殺気に満ちていた。
皆が皆、黒い戦闘服を身に付け、手にはわずかな光にも反射して不気味な輝きを放つ、思い思いの武器が握られていた。すぐにでも戦闘に入れるように構えている。
闇に乗じてひそかに行動しているつもりらしかったが、彼等の全身から立ち上ぼるその好戦的な気は隠しようがなかった。もともと隠す気もなかったのかもしれない。自分達の行く手を遮ろうとする、哀れでむこうみずな挑戦者を痛め付けることを考えて、彼等はマスクの下の顔に猥雑な笑みを浮かべていた。
その場所にたどり着いたとき、彼等は相手の気配が消えていることに気付いた。彼等の統制が一瞬崩れたその瞬間。
何者かがその中を駆け抜けた。
ある者には一筋の光が走ったかに見えた。
その光にはじかれたように、両側にいた者がうめき声もあげずに崩れ落ちる。何が起きたのか判断出来なかった者でも、地上に倒れた人間が永遠に起き上がることのないことだけは理解した。
一瞬にして彼等の三分の一が失われた。
絶対の勝利を確信していた男達に初めて恐怖が走った。そして彼等の目の前に経った人影を血走った目で見つめた。
まるで降って湧いたかのように何の気配もなく五右ヱ門がそこに立っていた。今、男達の中を通り抜け、刀を振るったことなど微塵も感じさせない。街灯がすべて消された新月の闇の中で、暗闇に目の慣れた者だけが見える薄明りをまとって、五右ヱ門は影のように立ち尽くしていた。
相対する男達には見えなかったが、その瞳には冷たい刃のような光が宿っていた。怒りや殺気よりもさらに危険な感情であった。
(慌てるな)
リーダー格の男が最初に平静を取り戻し、動揺する回りの男達に呼び掛けた。(敵はしょせん一人だ)
だが、その言葉にはあまり説得力はなかった。彼等がリーダーの言葉よりも自分の目の前で起こった事を信じたからである。男達は依然としてその場から動くことが出来なかった。
「どうした」
五右ヱ門は低い声で呼び掛けた。
「拙者を倒さねば先へは進めぬぞ」
五右ヱ門が相手を挑発するなどめったにないことであった。その瞳に宿った冷たい光といい、彼の中には自分でも抑制することの出来ない感情が沸き上がってきていた。
男達の幾人かが奇妙な叫び声をあげて、襲いかかってきた。
アーミーナイフを振りかざした男が最初に五右ヱ門に飛び掛かる。それを紙一重で楽々とかわし、その背を柄で突くと反動で反対側から来た男の胸を鞘ごと殴り付けた。
骨の折れる嫌な音がして男は物凄い声を上げたが五右ヱ門は容赦なく次々と襲いかかる者たちをかわしては傷を負わせた。
その間一度も剣を抜くことはない。
一瞬のうちに最初の集団は五右ヱ門の回りにうめき声をあげて転がった。五右ヱ門は再び構え直し、男達を睨み付ける。
その時背後に動く者があった。最初に五右ヱ門がかわした男である。柄で押されて転がっていたがダメージはなかったため、そのまま機会を窺っていたのである。
しかしその動きを五右ヱ門が見逃すはずはなかった。
男が襲いかかろうとしたその刹那、光が一閃した。
男の体をなぎ払った刃はそのままさらに前で一閃し、かすかな音で打ち出されたマシンガンの弾を払い落とした。五右ヱ門が後ろを向いた隙を狙って誰かが撃ったものであったが、五右ヱ門には通用しなかった。
しかし、それをきっかけに男達は無秩序に五右ヱ門めがけて襲いかかった。
五右ヱ門にとって取るに足らない相手ではあったが、数が多すぎた。全体を把握することが出来ない。自分の回りの男達を倒すことだけで精一杯であった。統制のない攻撃であるためにいっそう戦況を読み取ることが難しい。
襲いかかる男達をなぎ倒しながら、五右ヱ門は気付かぬうちにいらだちを覚えていた。斬っても斬っても減らない敵を次第に彼は怒りに任せて叩き斬っていった。それが彼に隙を作ったのだろうか。
ふと彼は視界の隅に動くものを認めた。
彼に襲いかかるものとは違う動きだった。そして彼は初めて、自分の回りにいる敵が数人しかいないことに気付いた。彼等を牽制しながら、五右ヱ門は生き残った男達が彼の目を盗んで建物のほうに向かうのを見た。
(しらゆり……ッ)
初めて五右ヱ門に焦りの色が走る。
「待てッ!」
発せられた声は余裕をなくしていた。呼び掛けられた相手はもちろん待つわけはなかった。
敵はいつまでも無秩序ではなかったのだ。攻撃は無秩序であったが、その裏でリーダー格の男が五右ヱ門の余裕のなさに乗じて建物へ向かう別動隊を編成していたのだ。
五右ヱ門の焦りに勇気づけられたように残りの男達が一斉に襲いかかってきた。五右ヱ門の心はすでにここにはない。
ひたすら襲いくる敵を斬り付ける。だが五右ヱ門の肉体にも限界が訪れようとしていた。あと数人、その数人を倒すだけになぜこんなに手間が掛かるのか。焦りは自分への怒りへと変わる。
足元には多くの死体が転がっていた。振りかぶった瞬間に五右ヱ門はその一つにひっ掛かった。かすかな隙が彼に生まれた。立て直そうとしたその時。
彼の後頭部に鈍痛が走った。背後の敵が銃弾を撃ち尽くしたサブマシンガンを彼に振り下ろしたのだ。
「くっ……」
それでも五右ヱ門はそのまま刀を目の前の男の体に、斜めに振り下ろした。
目の前が暗くなり、体中の力が抜けてゆく。薄れる意識の中で刀を両手で構え、背後になぎ払った。確かな手応えがあった。生暖かいものが彼の頬に飛び散った。
それが最後の敵であった。
自分の回りに、生きている人間の気配が失われたことを感じながら、五右ヱ門の意識は後頭部の鈍痛と共に闇へ落ちて行った。
(しら…ゆ…り……)
動かしたはずの唇は声にならず、僅かに空気を吐き出しただけだった。
五右ヱ門の内と外に闇の帳を下ろして、永遠に等しい沈黙が辺りを支配した。