BLUE MOON
3.闇の中で
「あそこだ」
低い声で、ジュリアは五右ヱ門に向かってささやいた。彼の背後には沈みかけた細い月が掛かっていた。間もなく新月の夜が来る。
「あそこから、俺が忍び込む。あんたの待機場所はここから見える、あの門の裏側だ。見張りがいるようなら片付けて、俺の退路を確保しといてくれ」
「わかった」
二人はターゲットから何軒か離れた、廃ビルの屋上にいた。最後の確認に来たのである。といっても、確認に来たのはジュリア一人であって、五右ヱ門はたまたま会ったので付いてきたのだった。
「俺の侵入口にはしらゆりを立たせる。ま、打ち合わせ通りだ」
「本当にあの子を連れてくる気か?」
五右ヱ門は眉を寄せた。五右ヱ門の不信そうな声に、地図と照らし合わせてチェックを続けていたジュリアは顔を上げて彼の顔を見た。おかしそうに言う。
「いつものことだが?」
「いつもとは違うはずだ」
五右ヱ門の言葉に、ジュリアは彼の顔を見つめたまましばし沈黙し、それから天を仰いだ。右手で髪をかき上げる。
「……確かにな」
上を向いたまま一瞬目を閉じたジュリアだったが、直ぐに五右ヱ門に向き直った。
「だが、他に誰がいる?」
そう言って、五右ヱ門に向かっていたずらっぽい笑みを浮かべ、ジュリアは再び地図に目を落とした。
「あんたは信じないかもしれないが、彼女は優秀だよ」
黙ったままの五右ヱ門に再び目をやり、ジュリアはくり返した。
「優秀だよ。あんたは信じないかもしれないけど」
それから、満足そうに一つうなずくと、地図を終い込んだ。階段に向かって歩き出す。五右ヱ門もそれに従った。
古びた階段を下りながら、ジュリアは横を歩く五右ヱ門に顔を向けた。その顔にまだ納得の行かない表情を読み取ってそっとため息を付く。
「……まあ、あんたが納得いかないのも無理はないがな。結構振り回されているようだし」
思い出したように彼はそっと忍び笑いをした。五右ヱ門は横目でジュリアを睨む。しかし事実であった。
普段ジュリア以外の人間と触れ合うことのないしらゆりが五右ヱ門を格好の遊び相手と判断したのも当然のことである。彼女は五右ヱ門と会う度ごとに彼について回った。
普通の人間だったら大した負担と思わないようなことかもしれないが、女の子どころか、人とさえまともに口を聞かないような彼にとっては途方もない苦労の連続だった。
「あれでもまだいい方だ、最初は口も聞けなかった」
不意に真顔になってジュリアは言った。その言葉に五右ヱ門は彼に顔を向ける。五右ヱ門の視線を受けてジュリアは話を続けた。
「拾ったときは口も聞けなかったんだ。反応もないし。今の方がまだいい、何を考えているかわかる。あんなでもな」
二人は階段を下り立ち、ふきっさらしの出口に向かって歩いていた。穴の開いた天井や壁から薄明りが二人を照らしていた。
「まだ完全に元も戻ったわけじゃない、とは思う。幾つに見える? あんたの目から見て」
「十……いや、待てよ」
五右ヱ門も一度ならず考えたことがあった。確かに態度も口振りもずいぶん幼いし発育が悪く、背も低くやせ細っている。だが……
「十五、かその辺り……」
「だろうな、俺も東洋人のみかけってのはどうもわからんが……。時々鋭いことを言うのも、ただ大人びているだけではないと思う」
しばらく黙ったまま二人は並んで歩いていた。建物の外に出て広い通りに向かう。
「どこで拾った」
五右ヱ門がつぶやくように問い掛けた。
「近くにダンスホールを兼ねた酒場がある。そこのフロアの真ん中に突っ立ってたのさ。目を見開いて。閉店になって人がいなくなっても独りで突っ立ってたから連れて帰ってきた」
「ずっと見てたのか?」
「まあ、な」
少し得意そうにジュリアは答えた。物好きな、という表情で五右ヱ門はあきれたようにため息をついた。
「……あんたに似てると思ったんだ」
ちょっと遠くを見るような目をしてジュリアがつぶやいた。
「は?」
我ながら間抜けな反応をしてしまったと思いながら、五右ヱ門は驚いてジュリアを見つめた。
「何だって?」
ジュリアは立ち止まって五右ヱ門を見つめた。その真っ直ぐな視線を五右ヱ門は少々戸惑い気味に受け止めた。彼のその切り込むような視線こそ、しらゆりに似ている、と思いながら。
「何だか時々、居場所を失ったような不安定な表情をしている、気がする」
視線とうらはらに、ひどく自信がなさそうにジュリアは口の中でつぶやいた。
「心臓を冷たい手で撫でられた気分になるから、本当はあんまり好きじゃない」
言ってから、彼は困ったように視線を外して空を見上げた。旨く言葉に出来なかったことにいらだっているようだった。
五右ヱ門は彼の顔を見つめたままま立ち尽くしていた。思考能力がどこかへ行ってしまって、それを取り戻すにはどうしたらいいのか、そればかりが頭の中を回り続けていた。
やがてジュリアは視線を戻し、いつもの表情になった。
「ま、そういうことだ」
あっさり言うとまた歩き始める。半歩遅れて五右ヱ門も続いた。二人はそのまま黙って歩き、大通りに出てからそれぞれの方向に別れた。
ジュリアと別れてからも五右ヱ門は黙々と歩き続けた。
狭い路地をいくつも曲がり、彼の住むアパートの前で初めて立ち止まって建物を見上げた。そのまま目を閉じる。ずっと頭の中で意味を考え続けていた、ジュリアの言葉を改めて思い出す。
(修行が足りない、な)
これがその結果というわけか。
悩みも苦しみも欲望も、何もかも感じなくなってしまえたら。自分を真っ白にしてしまえたら。
どうしたらここから解き放たれるのだろう。あと何を捨てれば良いのだろう。
やらなければいけないことはよく分かっているのに、その方法が見つからないのだ。
彼は目を開いた。空には相変わらず星が輝いていた。