BLUE MOON

2.夕暮れ時に

 数日後。
 その日は朝からよく晴れた気持ちのいい一日だった。
 前日の夜、仕事で遅く帰ってきた五右ヱ門も思わず早起きしてしまったくらいのさわやかさだった。彼の住むアパートの部屋が東向きなせいもあっただろうが……。擦り切れて薄くなったカーテンを通して朝の陽射しは強烈に彼の目を射ぬいた。
(普段は回りの建物に遮られて日当たりが悪いくせに、こういうときばかり……)
 心の中でぼやきながらカーテンをあけると、日の光は巧妙に回りの建物を縫って彼の部屋に差し込んでいた。
 ガタがきている窓を苦労して押し上げると、まだ冷気を含んだ朝の空気が頬に触れた。前日の夜のことなど忘れてしまいそうな輝かしい朝だった。
(夢だったのかもしれんな……)
 いや、夢だったらいいのに、というべきか。
 今ごろ、隣町の裏通りでは三人の男の死体が発見されているはずだ。警察はすぐにはその死因を思い付かないだろう。一滴の血も流さず、一太刀で相手を仕留める。彼の得意とするところである。しかも剣の素人相手とくれば、拳銃を持っていたところで彼の敵ではない。ほんの数秒、いやコンマ秒か。
 楽な仕事だ。楽な仕事だからこそ、五右ヱ門は苛立つのだ。こんなことを続けて何になるというのか。何が修行だ、ただの人殺しではないか。
 鋭く鳥が鳴いた。
 斜め前のアパートのベランダに集まったうちの一羽だった。ベランダには餌場が設けられていて、いつも果物や穀類が置いてある。そこには年老いた黒人夫婦が住んでいて、鳥の観察は彼等の唯一の楽しみらしかった。
 今も妻のほうがベランダの端に立って、餌を手に、集まった鳥達を嬉しそうに眺めている。彼女は五右ヱ門に気付くとにっこりと微笑んだ。五右ヱ門も慌てて会釈を返す。
 空を仰いで彼はつぶやいた。
「日の光は全ての人々に平等に降り注ぐ、か……」
 彼が殺した、あの三人の男の死体にも。


 午後遅く、五右ヱ門はジュリアの家に向かうために自分の部屋を出た。いつものように廊下と階段を抜け、通りに立つ。
(眠い……)
 午後のけだるさに呼応するように靄のかかりつつある頭を抱えて、彼はゆっくりと歩き出した。天気の良さに誘われて、彼は無意識に河岸に向かって歩いていた。
 裏通りのいつもと違う道を抜けると川岸の、広い通りに出る。広場も兼ねていて、そこではいつも人々が戯れていた。中流階級の市民のための場所であった。しかしその中にちらほらと貧しき人々の姿も、見えなくはない。
 レンガ造りの歩道を、なにも考えずに五右ヱ門は歩いていた。目に映る景色も、そこに集う人々も、彼の心には入ってはいなかった。
 ふと顔をあげると太陽の光が彼の目に飛込んだ。その柔らかさと真っすぐさに彼は思わず目を閉じた。
「五右ヱ門?」
 不意に彼に向かって呼び掛けられた声は聞き覚えのあるものだった。だが一瞬誰の声かわからず、彼は目を開けると戸惑って声の聞こえた方を向いた。
 五右ヱ門から十歩ほど先、河に沿って並んだベンチの上にその声の主は立っていた。漆黒の髪を持つ小柄な少女。彼女は五右ヱ門と目が合うとにっこりと笑った。まるで悩みを知らぬげなその微笑み。
「……しらゆりか」
 記憶を辿って五右ヱ門はつぶやいた。いまいち自分の事以外に関心のないこの男は、物覚えが悪かった。
 しらゆりはベンチから飛び下りると、彼の方へ跳ねるように駆けてきた。その腕には茶色い買い物袋がしっかりと抱えられている。
「ジュリアのとこに行くんでしょ? 一緒にいこっ」
 そう言うとさっさと五右ヱ門の横を歩き出す。見下ろした彼は回りの人々に比べ、少女の着ている物が貧しいことに初めて気付いた。色あせたその服は、洗い晒しの清潔さだけが際立っていた。ジュリアのこまめさの表れか。
 五右ヱ門の視線に気付くと、しらゆりはまた彼に笑顔をむけた。
「買い物に行ってたの、ジュリアに頼まれて。あ、ねえ、一緒に御飯食べてかない? ジュリア上手なのよ」
「ああ」
 気のない返事を返してから、五右ヱ門は、少女が自分の体に不釣合な荷物を抱えていることを思い出した。「拙者が持とう」
「いいの」
 しらゆりは簡潔に答えた。「あたしの買い物だから」
 そして、紙袋を抱え直すと背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見て歩き出した。五右ヱ門もそれ以上は何もいわずに、前を向いて歩いていた。
 どうも近頃、自分はぼんやりしているな、と五右ヱ門は自己反省した。このままだといつか致命的な事態になる。
 だからといって、自分を思い通りにコントロール出来るわけはない。
 俺の悩みはどうしてこうも尽きないのだろうか。いつも悩みを探して歩いている。それも解決の見えない悩みを。
 まるで、悩まなければ生きて行けないように。

 扉の前で、さすがに少女は五右ヱ門に買い物袋を手渡すと、巧妙に戸を決められた数だけノックした。室内で物音がし、ドアが静かに、しかし軋んだ音を立てて開いた。戸の隙間からジュリアの端整な顔が覗く。
「ああ、五右ヱ門も一緒か」
「そうよ、河の側で会ったの」
 しらゆりは五右ヱ門から紙袋をひったくるようにして取ると、さっさと部屋に入っていった。それをジュリアが持ち上げてテーブルの上に置く。
 五右ヱ門は何となく入りそびれて、入り口の辺りに立ち尽くしていた。それに気付いたジュリアが五右ヱ門に椅子を示す。
「掛けていてくれ、今お茶を入れる」
「先に食事にすればいいじゃない、仕事の話は食べながら出来るでしょう」
 しらゆりが口をとがらせて言った。長引いて食事にありつけなくなることを危惧しているのだ。
 ジュリアがかすかに苦笑する。そして五右ヱ門のしらゆりを見る目にも同じ笑みが浮かんでいるのを見て取ると、五右ヱ門に向き直った。
「夕食は取ったのか?」
「いや、まだだが」
「これから後、予定は?」
「ない」
 ジュリアは口の端にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「じゃあ、多少家に帰るのが遅れたところで問題はないわけだな。まさか、食事のために商談が遅れるのを気にするほど仕事熱心ではあるまい?」
「まさか」
 どうせ、食事には誘う気でいたのだろう。それが後になるか先になるかだけの違いだ。五右ヱ門にはどうでもよかった。
「悪いがもう少し待っていてくれ、すぐの準備する。大体は出来ているんだ」
 ジュリアはもうキッチンに向かいながら言った。そういえばこの部屋にもかすかに料理の匂いが漂っていた。ここに来るまでの道々、露店の食べ物の匂いや家々からあふれて来る夕食の支度の匂いの強さに慣れていたので気付かなかったのだ。今だって、この部屋では家の中の匂いより外の夕暮れ時特有の匂いのほうが強いくらいだった。
 誰もがいつかは懐かしく思い出す、よその家の匂いと、自分の家の匂い。
 五右ヱ門は窓際に立って外を眺めた。遠い異国の地でも、人々の生活の営みがあり、匂いがあるのだ。
(結局、どこにいても同じなのだな)
 冷たくなった風が五右ヱ門の頬をなでた。彼の髪をなびかせる。
 狭いキッチンではジュリアとしらゆりが立ち働いていた。
 機械的に無駄なく動くジュリアに比べて、しらゆりの動きはどこか危なっかしい。それでもジュリアにぶつかることもなく器用に仕事をこなしていた。五右ヱ門はそれを不思議な気分で眺めていた。ジュリアの生活を垣間見るのは初めてだった。前から器用でこまめな男だとは思っていたが、それが生活面にも発揮されているとは。こんなに彼の生活に踏み込んだことは今まで無かったのだ。
 彼はかすかに首を振った。人の生活に足を踏み入れることが何を意味するか。
(なれ合いは御免なのだが……)
 だからこそ、今まで彼は人と触れ合わぬようにしてきたのではなかったか。
 だが、不思議と、この空気を五右ヱ門は嫌とは思わなかった。嫌だったら、こうなる前にとっとと逃げ出している。
 しかしジュリアと五右ヱ門だけだったらこうはならなかっただろう。いくら、二人が信頼関係で結ばれているとはいえ。
 この原因は紛れもなく、二人の間を軽い足取りで動き回っている黒い髪の少女。
(振り回されているのだな。俺も、お前も)
 自嘲気味に、五右ヱ門はその奥のジュリアを見やって思った。それでも決して、悪い意味ではなく。





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