BLACK ROSE
1.
むせ返るような薔薇の匂いに包まれて、次元大介は目を覚ました。
目を開けたら自分は一面の薔薇畑の真ん中にいるのではないか…。
ばかげたことと頭のどこかでわかっていながら、そう思わずにはいられないくらいにその香りは明確だった。が。
目を開けるとそこはいつもの部屋。薔薇どころか一つの家具さえもない。あるのは枕もとの愛用の拳銃のみ。結局は夢だった。
(夢・・・)
内容を思い出そうとしても、その香りしか彼には浮かんでこなかった。香りは何の手がかりにもなってはくれず、自分がいったいなぜこんな目の覚まし方をしなければならなかったのか途方にくれる。
しかし、彼の身体にはいつまでも薔薇の濃厚な香りが染み付いているようだった。どこかで嗅いだことのあるような馴染みのある香り。一番縁遠いものと自分では思っているのだが、常に彼の身近にあるのかもしれない。
「ちッ、気持ち悪ィ」
独り毒づくと次元はシャワーを浴びに立ち上がった。
2.
まだ薔薇の匂いが自分の全身にまとわりついているような奇妙な感覚にとらわれながら、次元は夜の街に繰り出した。ポケットに両手を突っ込み、背を屈めるようにして歩いていく。
街は派手なネオンがそこかしこにきらめいていた。
人の流れを彼は慣れた足取りでよけていった。下手にぶつかって揉め事になるのはごめんだった。
朝シャワーを浴びてからも、ふとした拍子に思い出す夢の香り。今日一日振り回されて彼はいささかうんざりしていた。街に出れば気分転換にでもなるかと思ったが、いつもと変わらぬ、蛍光色に縁取られた街並は彼を癒してはくれなかった。
相変わらずきたねえ街だ。
そう思いながら、自分がその景色に馴染んでいることも彼にはよくわかっていた。
とある通りの角で、次元は半地下ヘ続く石段を下りていった。目の前のドアを開けると外と同じく薄暗い部屋だった。
煙草の煙でくもった室内に、所々灯された明かりを透かして人影が揺れた。よく見ればその室内にはかなりの人間がいることが判る。
次元はいつものようにカウンターヘ行きグラスを受け取るとそのまま店の奥へと進んでいった。
店の一番奥、明かりも届かない暗い一角にいつもと同じ様に一人の男が座っていた。
きちんとスーツを着こなし、縁の細い眼鏡をかけている。ブラウンの髪は嫌味なくらいに品良く整えられていた。きめ過ぎでもなく、無造作過ぎでもない。まるでこの場所に似つかわしくない男であったが、不思議と違和感なく溶けこんでいる。
彼が何者なのかは誰も知らない。昼間は大企業に勤めるサラリーマンだとも、銀行員だともいう噂だった。
煙草の煙が嫌いだから、という理由からいつも店の奥に席を取っているという噂も次元は耳にしたことがあった。確かに一度も煙草を口にする姿を見たことはない。
この世界では、ただ「J」と呼ばれていた。
次元の姿を見ると男は微かに唇の端に笑みを浮かべ、低い声で言った。
「こんばんは、次元さん」
次元は無言で男の前に座る。目の前に座っても陰となった眼鏡の奥は窺い知れないが、その瞳が笑っていないことは確かだった。次元にとって危険な相手とは思えないが、気が許せる訳でもない。
それでもここ最近、男の一番の上客は次元であったろう。
向かいの椅子に斜めに腰を下ろした次元は無言のままグラスに口をつけた。胸元から煙草を取りだし、口にくわえたところで卓上に灰皿のないことに気付く。腰を浮かしかけ、面倒くさくなってそのまま座り込んだ。煙草の箱をポケットに戻しグラスにまた口をつける。
その間、男は黙ったまま自分の前にあるグラスを見ていた。
「何かあるのか」
沈黙に耐えかねて次元が低く問うた。常に自分を上位に置こうとするようなこの男の態度はいい加減腹に据えかねていたが、彼の持ってくる仕事がいつも間違いがないことは確かだった。
男はゆっくりと顔をあげ、次元を見据える。
「今日は、お気に召してもらえるかどうかわからないのですが・・・」
その唇の端は、おかしくもないのに笑みの形をつくっていた。
「俺は殺しの仕事以外やらないといったはずだ」
仕事の説明を聞いた次元は早口で言い捨てた。
「そう言うと思いました」
今にも立ち上がりそうな次元をなだめるような口調で男は答えた。
「でも今日はこれだけです。それにご指名なんですよ、先方の」
次元の方に身を乗り出すようにして男は続けた。次元を抑える為か、わずかに早口になっている。
「私はあなたに仕事の口利きをする。あなたはいつもそれを完璧に遂行してくれる。そしてそれぞれ報酬を受け取る。それはただのビジネスです。でも、あなたに仕事を紹介するようになってから私の信頼はあがりました。そして次元さん、あなたの名声も。この仕事はぜひ、あなたにやってほしいそうなんですよ」
「殺し屋に名声もくそもあるもんかね」
吐き捨てるように次元は言った。かまわずに男は続ける。
「私もあなた以外には出来ない仕事だと思います。他に回せる相手を知りません」
「ボディーガードは畑違いだ」
「あなた以外には出来ないが、あなたには簡単だと思いますよ。報酬もいいですし」
「金の問題じゃない。今日は仕事がないんならこれで帰るぜ」
立ち上がりかけた次元に向かって、男は微かにため息をつき言った。
「残念です。この仕事を受けていただけないのなら、次の仕事も回せません」
この野郎、と一瞬右手を握り締めた次元だったが、怒るのもバカバカしくなってそのまま背を向けた。
「考えが変わったらまたいらしてください。期限内にね」
男は次元の背中に向かって言い、次元を見送るとグラスを手にじっと考え込んでいた。