BLACK ROSE
3.
目の前にそびえる巨大過ぎるビルを、次元は帽子のつばから透かし見た。
ビルには巨大企業の看板。その傘下にある、こちらもアメリカ最大手の銀行が一階の全フロアを占めている。
銀行強盗でもしない限り、自分の人生に縁があるとは思えなかった建物。入り口には警備員が立ち、周囲に刺のある視線を走らせている。
自分のいでたちがその場所に相応しくないことを承知しながら、次元は視線を投げかける警備員の前を堂々たる態度で通り過ぎた。
銀行内に入り、窓口で男から言われた通りの言葉を告げる。すぐさま次元は別室へと通された。 革張りのソファが向かい合う応接室。
『私に会う為の魔法の呪文です』
そう言って笑った男の顔を次元は思い浮かべ、すぐさま頭から追いやった。
しばらくしてドアが開き、「J」が入ってきた。
夜のバーで会う時とは違う雰囲気の、いかにも切れ者といったスーツを着た彼は確かにこの場所に似つかわしい男だった。
「こんにちは」
次元の向かいに立ち、右手を差し出す。立ち上がる気もなかった次元は面倒くさそうに手を出し、形式だけの握手を交わした。
「監視カメラがありますが、声は拾いませんので」
言いながら向かいのソファに腰を降ろすと男は名刺入れを取り出し、中から一枚抜き取った。 営業用の笑みを浮かべて差し出す。
相変わらず眼鏡の奥は笑ってはいない。昼間の光の中で次元はそれを改めて確認する。
「本物の名刺です」
次元はそれを一瞥し、机に放った。夜の通称とは違う名がそこには記されていた。
「こういう風に自分の昼間の顔に呼ぶのがあんたのやり方だったかな」
苦々しげに次元は吐き出した。馴れ合って困るのは自分ではなくJの方。それでも次元には居心地の悪さが先に立つ。
「まさか…普通はやりませんよ」
感じのいい笑みを浮かべて彼は否定する。一体どれだけの人間が、彼のこの、本当には笑っていない笑顔に騙されているのだろう。
「あの場所では詳しく話しにくいですからね…今回だけ、特別です」
そういうと男は手にしていた封筒をソファの上に置いた。
「受けていただけて本当に良かった」
唇の前で指を組み合わせ、男は眼鏡の奥から次元を見て言葉を継いだ。
「あなたにとっても、私にとっても。…もちろん依頼主にとってもね」
結局次元は彼からの仕事を受けたのだった。
殺し屋と名乗っているからにはそれ以外の仕事はしたくはない。
だが、殺しにこだわる理由がどこにあるのだろう。自分は一体何の為に殺しをしているのだろう。
殺しを始めてから、さまざまな情報屋を渡り歩いた。最後にたどり着いたのがJだ。この男と手を切って今後まともな仕事が入ってくる可能性は低い。
結局オレは秤にかけたのだ。
今後の仕事の安定と…ささやかなプライドを…か?
どちらを選んでも後味の悪さが残る。それならば楽な方を選んだ方がいいのかもしれない。
次元は黙って相手を見返していた。男は次元の視線を受け、改めて指を組み笑顔を作る。
「あの場で話せない、と言ってもそう長い話ではありませんのでご心配なく」
そう言うと彼はソファに置いていた封筒を取り上げた。
「ご存知かもしれませんが、今回の依頼主はミラノフ氏です。これを預かってきました」
そう言いながらそのまま次元に手渡す。
銀行名の入るその封筒から出てきた物は、一枚のコインと地図。
コインを手にとって次元はじっくりと眺めた。
ダブルイーグルの金貨。アメリカの象徴ともいうべきコインだ。アメリカがもっとも輝いていた時代の。
「もちろんレプリカです」
裏表と返して、見ている次元に向かって男は言った。
「それが通行証になります。おそらく年号の部分の数字で区別しているのでしょうね。詳しいことは私にもわかりかねますが」
確かに元々年号が刻印してあるだろう場所は、数字とアルファベットの羅列になっていた。随分と手が込んでいる。
地図の方は、大きなものから切り取られたらしい一部。赤い字で書き込みがある。
「日時もそちらの地図に書いてあるそうです。それから…」
男はスーツの懐に手をやる。次元はつい習性で身構えた。
「…これを」
男が取り出したのはこの銀行の通帳だった。
「あなた名義の口座です。仕事の報酬の半分をここに入れておきました。ご確認ください」
受け取った次元は最初のページを開き、ほんの一瞬だけ目をやった。
前金だけでも普段の仕事の報酬を軽く超える金額が、そこには記載されていた。
「ちゃんと引き出せますよ。今試しますか?」
「…いや、いい」
「まあ、どこでも引き出せますからね。口座に関する書類はこちらです。当銀行のお客様には必ずお渡しするものですので、一応。一緒に入れておきますね」
彼は手馴れた様子で澱みなく事を進めていく。喋るたびに彼との間に溝が広がっていくような気分を次元は味わっていた。
会う度感じていた違和感の正体が見えてきた気がする。
商談を終えると、次元はいつも以上に疲労した気分で立ち上がった。ボルサリーノを被り直し、ぼそっと呟く。
「…邪魔したな」
「いえ、これも仕事ですから。…ということになってますので」
Jはにこやかに応じた。物問いたげな視線を向ける次元に、秘密めいた顔つきになって種明かししてみせる。
「融資をせまるうるさい客をいいくるめた上に、うちの銀行に口座を開かせてかなりの額を預けさせた…というわけですよ」
「…あんたクレーム係なのか?」
皮肉な口調で次元は笑って見せた。彼はふふっ、と謎の笑みを浮かべただけだった。
曇りひとつない一枚ガラスの扉を抜けて次元は外へ出た。相変わらず警備員が険のある視線を投げかける。
空を見上げ息を吐き、次元はスーツのポケットに手を入れた。先ほど受け取ったコインが指に触れる。
胸ポケットには前金の入った通帳。いつもの拳銃の代わりに収まっている。
受け取っちまったんだから、仕方がねえ。
自分に言い聞かせるように心の中でつぶやく。
煙草の箱を取り出し、1本咥えた。彼の目の前を歩いていたスーツ姿の女性が、その仕草を嫌悪の表情で見つめ、早口で何か吐き捨てていった。
次元は舌打ちすると火をつけるのはあきらめ、煙草を唇で転がしながら歩き始めた。
まったく嫌な感じのする街だ。何もかも小奇麗に出来てやがる。
そしてその中に溶け込んでいるあの男も。
その彼が持ってきた仕事も。
それを受けなければならない、この街から浮いているこのオレも。
何もかもが、不愉快だった。
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